4-107 名前: 名無しさん@ピンキー [sage] 投稿日: 2006/11/01(水) 04:28:13 ID:S/8bjIN9

 力任せに扉を開け放つ音が、夕暮れ色の小さな温室に響き渡った。
 「?」
 掃除中だった唯一の園芸部員、橘ちひろはこの時点で異常に、数秒後に自分
の身に降りかかる危機に気付くべきだった。が、生来彼女は異変と危険を瞬間
的にイコールで結びつけることが出来るほどに疑い深い性格ではなかったし、
絶望的な迄に追いつめられていた故郷から『未来』は『明日』と同義なのだと
信じて疑わない世界へと移り住み、そこでの暖かい日々で癒され優しく包み込
んでくれる恋まで得ることが出来た彼女は人間という生物の根底に流れている
物が皆等しく善良なのだと思い込むようになってしまっていたのだ。
 「えっと………きゃ……!?」
 黒い影は目にもとまらぬ速さで飛び込んできたかと思うと、掃除のために動
かそうと抱え持ち上げた鉢植えを降ろす猶予さえ与えず小柄な彼女に覆い被さ
って視界を埋め尽くす。何が起こったのか、などと悠長に考える暇もあればこ
そ、ちひろは拘束されたまま宙を舞い、そのまま背中から地面に叩き付けられ
た。抵抗すら許されず問答無用で捕まえられたのが幸いしてか、直接ダメージ
を負うこともなかったものの、突然の出来事と物理的な衝撃とで頭の中で無数
の花火が弾け飛んで思考まで停止して……



 「え? なに? なにがどうして……?」
 それから何秒、あるいは何分経ったのか。ブラックアウトしていた意識がリ
ブートしたものの、ちひろの視界は未だ暗黒のまま。とりあえず光を得ようと
精一杯に頭を左右に振ってみても状況は変わらず、自分より背丈も体重も上な
何者かの下敷きになってしまった彼女には何も出来ない何も判らない。感じる
のは頭の中で響く自身の鼓動と、頬に伝わる相手の脈動と、服に染み込んだ何
処か懐かしい匂い……
 「……先輩? 久住……先輩?」
 返事はないし、ピクリとも動かない大きな体。
 「久住先輩……ですよね? あの、どうしたんですか?」
 未だ何が起こったのか良く分からないのだが、とりあえずこのままでは埒が
明かない。というか正直重くて苦しい。
 「久住先輩? あの、失礼……しますね?」
 やはり反応はない。しかたなく、よいしょよいしょと重たい体を押し上げる
ようにしながら動かない腕の中から這い出し、小さい胸を大きく上下させて新
鮮な空気を取り込み、改めて襲撃者(?)の姿を確認すると……
 「………………あ……た、たいへんっ!!」
 ……その男、久住直樹は彼の恋人が反射的に宙に放り上げた彼の頭ほどの大
きさがある植木鉢、しかも秋桜という中身が詰まった質量兵器の直撃を後頭部
に受け、見事に昏倒していた。
 「はは、はやく植え替えてあげないとっ!」
 そして橘ちひろという少女は、微妙に冷酷だった。



「変な夢を見たんだよ。」
 「夢、ですか。」
 「うん、それで急に心配になってね?」
 「あの、それ、もしかして授業中に居眠りしてたって事じゃ……」
 「いや、それは置いといて。」
 「置いとくんですか?」
 「いや、なんていうか……重要な部分じゃないから……」
 悪夢から解放してくれた、という意味では深野教諭に一応感謝もしている直
樹だが、正直言ってその後は別の意味で悪夢だった。
 「うふふっ♪」
 「ちひろ、ちゃん?」
 花壇の縁に並んで腰掛け、絞ったハンカチで直樹の後頭部を冷やして貰う直
樹の後ろで、ちひろは可笑しそうに嬉しそうに笑っていた。
 「それで、久住先輩は温室の扉を壊しちゃいそうな勢いで飛び込んできて私
を押し倒したんですか? 問答無用で?」
 「びっくり……させちゃったかな?」
 「はい、それはもう。」と、楽しそうな声色「私、イノシシさんか何かが迷
い込んできたのかと思っちゃいました。」
 「いや、流石にこの辺りにイノシシはいないから。」
 「それもそうですね、うふふっ♪」
 顔は見えなくても、その弾んだ声だけで彼女が怒ってはいないとわかり、内
心で胸を撫で下ろす直樹。いまにして思えば自分でも呆れ返ってしまうほどに
馬鹿馬鹿しい行動だったが、あの時は本当に居ても立ってもいられなかった。



 「久住先輩?」
 「なにか……うわっと!?」
 小さくて柔らかい手が直樹の頭を包んで、抱き寄せる。
 「先輩は、いつも私のことを守ってくれているんですね?」
 小さくて柔らかい胸に抱き締められた直樹の耳に、ゆっくりと穏やかな心音が
優しく染み込んでくる。無条件で安心できてしまう、不思議な音だ。
 「ちょっと、頼りないけどね……」
 しかも、これでは真逆だ。
 「そんなこと、ないですよ。」髪を撫でる優しい手。ちひろは一言一言を丁寧
に区切り、噛んで含めるように話す「私のためにこんなに慌てて、頭にたんこぶ
を作っちゃう。そんな、ちょっとだけ格好悪い久住先輩が、私は大好きです。頼
りないだなんてこと、全然ないです。」
 「そう言って貰えると……っていうか、タンコブ!?」
 「はい。それも凄く大きいのが……」
 「……道理で痛みがなかなか引いてくれない訳だ。」
 「じゃあ、あの……」と少し照れくさそうな声「……痛くなくなるおまじない、
しましょうか?」
 「おまじない?」
 「というか、それほど大層な物ではないかも知れないですけど……」
 「………………じゃあ………是非!」
 「は、はいっ♪」
 そして『い、いたいのいたいの、とんでけ』と消え入りそうな声で唱えながら
繰り返し繰り返し頭を撫でてくれるちひろの手と甘い匂いに癒されながら、直樹
は改めて幸せという宝物の尊さを心に刻んでいった。