8_5-765 名前:はにうられ・第3回 投稿日:2012/09/01(土) 00:27:42.90 ID:kUl1h6a+


 ちひろが出された食事を口にした(とは言っても最初は直樹がスプーンで掬ったスープを機械的に
咀嚼するだけだったが)のは最初の奉仕から三日後。直樹の前で言葉を発したのは、更にその二日後
のことだった。
 「私、ここで死んじゃうんですか?」
 天助近くにある小さな小さな採光用の窓。部室の中から覗ける唯一の外界である初夏の空。ゆっくり
と形を変える入道雲の切れ端を、安っぽいベッドの上に座ったまま眺める体操着姿の少女の淡々とし
た口調が直樹の胸を貫く。
 「そ、そんなことは……」
 「あるんですよね?」
 茉理と同い年、しかも茉理の親友(ちひろの持っていた携帯の履歴と、茉理から聞いた行方不明の
親友の話から先日判明した)の儚げな笑みを直視することが出来ない。それに実際、菅原や飯田は、
ここ数日のちひろ様子から処理を何度も提案していたのだから尚更だ。
 「……ごめん、可能性がないとは言い切れない。でも橘さんが奉仕活動さえしてくれれば俺にも助
けることが出来ると思うんだ」
  部員の処置の最終決定権を持っているのは直樹ではなく部長だ。だが、ちひろが部員としての勤
めを果たしている限りは直樹の意見が尊重される公算が高い。『勧誘』にある程度の制限がかけられ
ている上に、それ自体のリスクがつきまとう以上、確保している部員を粗末に扱ってしまっては部そ
のものの存続も危うくなってしまうからだ。
 そして部が問題を起こしたり運営が破綻したり、それ以前に学園側への上納金が支払えなくなれば
トカゲの尻尾のように切り捨てられ容赦なく闇から闇へと葬られてしまう。
 「でも、それって……このお部屋でペットみたいに飼われながら、好きでもない男の人を相手に毎
日毎日……しなくちゃ駄目ってことですよね?」
 「で、でもほら、みんながみんな馬場先生みたいな奴じゃないし、中には……」
 「でも私だって女の子なんです!!」
 「……………」
 「こんなの嫌ぁ。もう耐えられない……」
 涙腺が決壊し、ほろほろと大粒の涙があふれ出す。



 「私、こんなに汚れちゃって。もし先輩の言うとおりに我慢して、本当にもしかしたら家に帰れる
日が来たって、もう普通の生活になんて戻れないです」
 「……………」
 「こんな汚くて何の取り柄もない女の子、もう誰も……」
 「あ、あのさ?」と直樹が慌てて口を挟む「そんなに卑下しなくても良いんじゃないかな? 
橘さんは頭が良いし、その、俺は今も可愛いって……思うかな」
 「ふぇ?」
 余りに意外、というか場違いな言葉にちひろの涙が止まる。
 「さっきも言ったけどさ、俺は一応だけど部活の一部を任されてるし、出来るだけ橘さんに負担が
かからない様にすることも出来なくはないと思うんだ」
 「…………………」
 「もちろん橘さんばっか特別扱いするのは無理だけど、少しくらいなら……」
 「…………………」
 「それに死……諦めるのは何時でも出来るんだから、その前に騙されたと思うくらいに感じで、
ちょっとだけで良いから待ってくれない……かな?」
 「…………………」
 「……橘さん?」
 「あ……」魂が抜けたような表情で直樹を見つめていたちひろが正気に戻る「そ、そんな調子の
良いことを言われたって信じられません! だいたい先輩は、あの人達の仲間じゃないですか!」
 「そりゃ、そうだけど……」
 「それに私、先輩が考えてるほど馬鹿な女の子じゃありませんから! 見え透いたお世辞なんか言
わないでくださいっ!!」
 どうせ胸もお尻もちっちゃいですし! と口の中で呟くちひろ。



 「いや、そういう控えめなスタイルも含めて可愛い女の子だと思うよ、橘さんは。ほら、なんてい
うか守ってあげたくなるタイプって感じで」
 「!?」ちひろの頬が赤く染まる「そそ、そういう余計な所は聞こえてても聞こえないふりをする
のがマナーなんですっ!」
 ほんとにもぉ! とプンスカ湯気を上げている横顔に直樹は胸をなで下ろす。とりあえず自分に対
して言い返すだけの気力も戻ったようだし、何よりも距離感が縮まった気がする。こらなら数日中に
本格的な指導も再開できるし、ちひろが直ぐに処理される可能性はなくなるだろう。

 ……そして、女の子を元気づけながらも、同時に部の為に打算的な思考をしてしまっている自分が
少し悲しくて……

 「センパイ、久住センパイ! 起きてくださいって!!」
  女の子の細腕ででゆさゆさと体を揺さぶられて直樹は数ヶ月前の記憶から引き戻された。どうや
ら少し微睡んでいたらしい。
 「…………あれ、栄?」
 栄花子。直樹と同じ『郷土資料研究会』の部員で一年生。まだ大きな仕事は任されておらず、主な
役目は『勧誘』と、上級生の手伝いだ。
 「部長から伝言っすよ。今日は連絡会で顔を出せそうにないから、段取りは全部久住センパイに任
せるってことっす」
 つかセンパイ、携帯の電源切るの止めてくださいよね〜! と不機嫌そうな栄に片手を挙げて応じ
つつ、直樹は寝ぼけ半分のまま起き上がる。
 「ということは、今日の外回りはお前と飯田だけか。菅原は何て?」
 「サポクラの偵察に行くって言ってましたよ。だから久住センパイは一通り指導した後で、部室に
詰めて奉仕の監視してて欲しいって」
 (菅原の奴、また俺に仕事を押しつけて……!)
 「……あの、久住センパイ? 大変だったら私も残りましょうか?」
 「いや、締めも近いし予定通りで頼むよ。あと、次の勧誘の目星もつけといてくれ」
 了解っす。と校舎内に戻る栄の後ろ姿を見送った後、まだ少し重い頭を振りながら直樹も立ち上が
り、フェンスの向こうに広がる校庭を何気なく眺める。
 すると、そこには……



 「馬場先生、生徒達の気が散りますから」
 「いや、しかし水泳の授業は事故が発生する可能性が一番高いですし、野乃原先生お一人じゃ大変
でしょうから……」
 競泳用水着(子供用)の上にパーカー(子供用)を羽織った結が精一杯の力で押し返しても、巨漢
な馬場の体はビクともしない。今年最後のプール授業と言うことで本日は実質的な自由時間。特に指
導もメニューもないと言うことで、たまたま受け持ち授業がなく女生徒にも人気がある担任の結に白
羽の矢が立ち、わかりましたと監視を始めようかとしている所に何所から嗅ぎつけたのか馬場が割り
込もうとして、プールの前でちょっとした押し問答になっていた。
 「あとで星井先生もいらっしゃることになっていますし、私一人でも大丈夫ですから!」
 「いやいや、そう遠慮なさらずとも……」
 生徒からの馬場への評判は、同じ教師である結の耳にも入ってくるほどに宜しくない。ましてや女
生徒からは嫌悪されていると言っても良いほどだ。現に今も、馬場の視線は結の頭上を通過してプー
ルサイドから迷惑そうな視線を向けてくる水着姿の少女達に注がれている始末。
 「ほ、ほんとうに困ります〜!」
 むむむむむぅ〜! と必死に踏ん張って両手で馬場の臍の辺りを押し返そうとする小さな教師の姿
に生徒達の声援がかかる。舐め回すような目付きで始終観察され続けては折角のプールも全く楽しめ
ないのだから当然と言えば当然だが。
 「「「結センセ〜、頑張って〜!」」」
 ならお前らも手伝えよ、と屋上からツッコミを入れたくなる直樹。直接的に手を貸さなくても、皆
が揃って「馬場先生は必要ないです」という意味合いの声を出すだけでも結構な援護にはなる筈なの
だが。



 「う〜ん! うぅ〜ん!!」
 「さぁさぁ野乃原先生、こんなことをしていても授業時間を無駄にするだけですから……」
 といい加減に邪魔臭くなってきたらしい馬場が大きな手で結を脇にどけようと……
 『馬場先生、馬場先生。至急、職員室までお戻りください。繰り返します。馬場先生、馬場先生、
至急職員室までお戻りください』
 「……仁科先生?」
 まるで見計らったかのようなタイミングの校内放送は、保険医の仁科恭子だ。
 「ほら馬場先生、放送で呼んでいるみたいですよ?」
 明らかにホッとした様子の結は肩で息をしている。どうやら本気を出していたらしい。
 「ええ、分かってますよ。くそっ……!」
 一方で未練たらたらの馬場も、この状態で呼び出しを無視することは出来ない。ブツブツと悪態を
つき不満そうに肩を怒らせて校舎へと戻ってゆく。
 「いや待てよ、野乃原先生がいるってことは……」やれやれと胸をなで下ろしかけた直樹は遅れば
せながら気がついた「……って保奈美! じゃあ、あれ俺のクラスじゃないか!」
 言うまでもなく、後の祭りである。
 「ま、いっか……」
 体育なら、誰とも打ち解けようとしない直樹がいない方がクラスメイト達も気楽に違いない。そう
自分に言い聞かせ自嘲的な笑みを浮かべながら直樹は再び寝転んだ。
 「一人の方が、気楽なんだからな」



 「……あのチビ、新任の癖に俺の邪魔しやがって……!」