8-32 名前: 灰色 猫 [sage] 投稿日: 2008/02/13(水) 22:24:09 ID:47FjmEdO

「ただいまー」
 カギがかかっている事に安堵しつつ裕介は、玄関のドアを開け、返事に期待しないで
声をかけた。
「裕介!!」
「文緒?」
 玄関に駆け寄ってきた文緒に、裕介は良くない思いに身を強張らせた。
『大丈夫か?』
 そう言おうとしたときだった。
「大丈夫?」
 先にそう言った文緒が裕介に抱きつく。
「えぇっ?」
 裕介は、文緒に聞き返した。
 抱きつかれた弾みで、裕介が持っていた買い物袋が、玄関の土間に転がる。
「どうしたんだよ」
 駆け寄ってきた文緒の様相に、また保奈美がちょっかいを出してきたのではないか、
と危ぶんだ裕介は、状況が飲み込めなかった。
「だって! 学校が火事だって!!」
「まてよ! なんだよ、それっ」
『放火までするかよ。普通』
 裕介は、腹の中で罵る。そうでもしなければ、拡大していく状況についていけない
鬱屈とした感情が溜まるばかりだと、人の生理が警戒させているからだ。
「それで、私、心配になって!」
「そうか・・・ よし。うん。俺は大丈夫だ」
 裕介は、とりあえず文緒を落ちつかせたかった。
「文緒は大丈夫?」
「うん・・・」
「よかった・・・」
 そう言って、裕介は、文緒を優しく抱き寄せる。
 裕介は、後ろ手に玄関の戸を閉めて施錠してから、また口を開いた。
「学校で何があった? わかるだけで良いから、俺にも教えてくれ」
「さっき仁科先生から電話があって、それで・・・ 学校が火事になったって、怪我人は
出なかったけど、その、やっぱり・・・」
「藤枝の奴か。学校を焼き討ちするなんて、信長も真青だな。ええ?」
 はじめから犯人に心当たりのあった裕介だが、あえて、「あぁ、やっぱり」というふうに
答えた。
 それから、二人で手をつないでリビングに向かった。
 裕介は、ベランダの出入り口から学校のほうを伺う。夜の帳が下りた山あいが、わずかに
オレンジ色に灯っているように見えた。
「夕飯、今日はオレが作ろっか?」
「ううん。大丈夫」
 文緒もまた、裕介を気遣っているのだ。
「じゃ、一緒にやろうか?」
「平気だって言ってるのに・・・」
「いいじゃん。夫婦仲むつまじくってことでさ」
「もう・・・」
 お互いに想い合い、想いが通じているのは幸せなことだと、裕介は思った。



『文緒もそう思っていてくれたらうれしい』
「どうしたの? なにか嬉しそう」
「いや、なんでもないさ」
 命のやり取りが行われるようなこの状況下でさえ、お互いに思い合えるきっかけを
作る事ができるのなら、まんざら大した事でもないと裕介には思えた。
 どんな状況でも、二人を結ぶ絆を確かめ合えるという実感が、裕介の中に生まれつつ
あるのだ。


 裕介のにぎる包丁が、軽快に野菜を刻んでゆく。
「ところで、今夜は何にするの?」
 二人で、というのは大げさだ。そもそも裕介は何を作るのかすら知らないのだ。
 それでも裕介は文緒を手伝っていた。
「親子丼と、あともう一品なにか・・・ 作りながら考えるわ」
 文緒は、包丁をにぎる裕介の手つきが手馴れていることを、意外に思いながら答える。
「だいたい、何にするかは決まってる?」
「うーん・・・ キャベツサラダ!?」
「・・・・・・・・・」
 誰だって絶句する。
「丼物って難しいのよね。とり合せが。それだけだと物足りないようだけど、主菜を一品
加えると多いし、かといって野菜が多いこともあるから、サラダをつけるのも変だし」
「へぇ〜」
 手の込んだ献立など考える気のない裕介が、気の無い返事をした。
「あぁ、そうだ、お魚がまだあったから、お魚焼こうか?」
「魚? ・・・肉はないの?」
「親子丼に鶏肉入ってるじゃない?」
「そうじゃなくて、育ち盛りだから、牛か豚が食べたいの」
「いつまでも育ち盛りなんて言ってると、いつのまにか内臓脂肪ばっかり育っちゃうわよ」
 そう言って微笑む文緒の顔を見て、二人で料理する時間もいいものだと、面倒くさがり屋の
裕介にも思えた。
「裕介って意外と料理上手なの?」
「そう・・・ かな? でも意外って?」
「たまに何か作ってくるけど、そのときは簡単なものが多いじゃない? 月並みに料理は
苦手なのかと思ったけど、なんか手馴れてるようにも見えるし」
 裕介は、「あぁ」と納得するようにうなってから、
「文緒はなに作っても、文句言わないで食べてくれるからさ。うちは、親が両方とも
死んじゃってから、姉さんと二人暮らしだったんだけど、姉さん、料理するような
ガラじゃないだろ?」
「そうよね」
 美琴には悪いと思ったが、文緒にはそう思えてしまうに足るだけの確証があった。
「だから、大抵作るのは俺なんだけど、そのくせ、姉さんときたら味にうるさいし、
同じメニューを続けるとすぐ文句言ったり、結構我侭なんだよね」
「ふふっ、鍛えられたんだ」
「笑い事じゃないぜ・・・」
 そう言って裕介は肩をすくめてみせた。
 結局、キャベツサラダをつくろうとも思わなかったので、夕飯は親子丼一品だけとなった。
 それでも、恋人同士がよくやる「あ〜ん」をしたりして食べる親子丼は、二人の心を
満たしてくれた。



 夕食後。文緒が洗い物をしている間、裕介はソファーに体を預けて、ぼんやりと天井を
見上げていた。
 保奈美による学校への放火があったが、それらについて思案しているわけではない。
またく怠惰に、何も考えていなかった。しいて言うなら親子丼の消化に専念していた。
 不意に電話のベルが鳴る。
「俺でるから」
 台所のほうに一声かけてから、裕介は受話器を取る。
「はい、天ヶ崎です」
「裕介?」
 仁科 恭子の声だ。
「今、大丈夫?」
「ええ、いいですけど」
「秋月いや、文緒は、そばにいないわね?」
「あ・・・ はい」
 裕介は台所のほうをチラリと見てから答えた。
「学校が火事になったのは、文緒に聞いてるだろうけど」
「ええ、今日帰ってから聞きました」
「そう・・・。 これは秋月には言ってないんだけど・・・」
 恭子が言いよどむ。
「実はそのとき、結が襲われたのよ」
「えぇっ!?」
 裕介は声を上げてから、ハッとなって口元を押さえながら声をひそめる。
「それで先生は?」
「大丈夫。かなりの重症だったけど、命に別状は無いわ」
「本当に大丈夫なんですか?」
「心配ないわ。結にもいろいろ事情があるから。それでなんだけど」
 恭子が真剣な声で本題を切り出す。
「もう冗談ではすまない事になってきたから、こちらでもいろいろ対策を取る事にしたの。
あなた達には危険が及ぶようなことはないし、特別何かをしてもらおうってわけじゃないけど、
ただ、事態が深刻になってきてるってことは理解して頂戴。心構えだけはしてほしいの」
「わかりました」
「それと、このことは――」
「わかってますって」
「ちゃんと、旦那さんしてるのね」
「茶化さないでくださいよ・・・」
 軽口をたたくようになった恭子に、裕介も肩の力が抜けた。
「フフ、ごめんなさい。とりあえず、それだけよ」
「わざわざ、ありがとうございました」
「どういたしまして。じゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 受話器を置いた裕介に、洗い物を終えて台所から出てきた文緒が尋ねる。
「誰からだったの?」
「仁科先生。わざわざ火事のこと連絡くれた」
「そう」
 文緒は、テレビをつけると、裕介の隣に座った
「なぁ、文緒。今朝のこと怒ってる?」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・裕介に怒ってたわけじゃない」
 文緒が口を開いたのは、二人の間の沈黙に、裕介が今口にした事を後悔し始めつつも、



返事を促そうとしたときだった。
「いやだった。藤枝さんが裕介の世話をするのが。きっと久住君にも同じことしてたんだと思う。
だから、ああしてたら裕介がいなくなっちゃうんじゃないかと思ったの」
 文緒を心の整理をつけるように淡々と言葉を並べていった。
「・・・・・・・・・」
 裕介は黙って聞いていた。
 今は文緒の中の不安をすべて吐き出させてしまいたかったのと、裕介自身、文緒の言葉の
中に思い当たることがあったからだ。
 裕介には幼少のころの記憶が無い。今までその事に特別な感情を抱くことはなかった。
 彼が物心ついた、というよりは気付いたときには、美琴の弟だったし、家族がいた。
家庭は裕介に人と人とのつながりの中に喜びを教えてくれた。
 そのことが、穏やかなだけではなかった時代にあっても、裕介は生きる事を悲観する
ようなことはなかったし、明確な生きる意味などという偶像を作り上げることも無かった。
 由来の偏見というものを持たないがために、温かな家庭が素直な人格を育てたと見るべきだろう。
 裕介にとって、己の存在に根拠が無いなどということがさして問題ではないのは、人間が
他人との間の幸福を互いに共有するという、人間社会を穏やかに保つための真理を、
彼自身の心の中に育んでいたからだ。
 個人がわが身に執着せず、ほんの少し他人を思いやることで、ヒトの群れというのは
ずいぶん穏やかに保つことができるのである。これらは誰もが、理屈だけは素直に
受け入れられ、自然に欲求する心理であり、理想といえるかもしれないが、生存本能を
行動原理とするヒトの性がこれを阻害する。もっとも、共産主義のような、人類の
インテリジェンスの部分が生み出した社会構造の陰湿さや狡猾さが、これを阻むこともある。
 ヒトの優しさ、それが今、彼を悩ませているといえた。
 自分が偶発的な事故の産物だということを、素直に受け止められる裕介であったが、
原因が何であれ、最終的に久住直樹を消滅せしめたという事実を突きつけられているのだ。
 誤解されやすいが、本来“オリジナル”である直樹を消滅させたことに心を痛めている
わけではない。久住直樹という人間が確実に存在しているはずでありながら、自分こそが
彼を消し去ってしまったことは紛れもない事実なのだ。
 他人の幸福を喜び、他人に幸福を分け与えることはできても、他人の幸福を奪い取る
強欲さは無い。それを卑怯だと断言する強さを持ちながら、開き直って受け入れてしまう
傲慢さも無い。それが裕介という人だった。
 自分は、久住直樹を消し、藤枝保奈美を狂わせた。それは、文緒と子供を守るための
選択であったかもしれない。だが、そう言う自分はどれほどのものなのか? また、文緒
に顔向けできるのか? ということである。
「俺は文緒とずっといっしょにいるつもりだ。だけど、藤枝がおかしくなった原因は俺にある。
俺が文緒と一緒にいたいと思うことで、文緒をその共犯にしてしまうかもしれない。
それでも俺は文緒といてもいいのかな? って。文緒は嫌な気分にならないか?」
「裕介・・・」
「文緒は実際に会ってたから言うまでもないだろけど、久住直樹はたしかに存在したんだよ。
それはつまり、奴自身の考えを持ってて、あいつに連なる人間の輪の中にいたんだ。俺は、
その中から久住直樹を取りあげてしまったんだ。」
 文緒は裕介の顔を見上げる。
「ごめんなさい・・・ 私は裕介に甘えすぎてたのかも。裕介一人が悪いんじゃないわよ。
久住君のことだって、裕介に原因があったとして、裕介と一緒にいたいって思った私にも
責任があるはずよ。それに、それでも私は、裕介と一緒にいたいもの」
 直樹を消してまで自分が存えることを、生理の部分でまで受け入れることはできない
裕介であったが、そう言ってくれる文緒の体温をハッキリと受け止めた。
 姉とは違う、思慮深い大人が隣にいてくれることが、裕介の力になった。



 文緒は、パジャマのボタンを一つ二つはずすと、体の力を抜いて、ゆったりとソファーに
体を預けた。
「いいの?」
「うん・・・」
 裕介は、文緒の誘いに応え、手元を探り、指を絡めて手をつないでから、唇を重ねた。
 唇で、文緒の唇の感触を確かめる。
 唾液に濡れてヌラヌラとした文緒の唇に吸い付くと、柔らかさの中に押し返してくる
弾力を持っているのが感じられた。
 今の、二人を取り囲む状況がそうさせるのだろうか。唇を重ねただけで、裕介は無性に
文緒がほしくなった。
 それが、決して扇情的なものではなく、もっと穏やかな、文緒を抱きしめているだけで
満たされると思えるものである。むしろ、今の裕介には文緒の体温が恋しかった。
「なぁ・・・ 身体は大丈夫?」
 唇を離して文緒に尋ねてから、裕介は、始める前に聞けばよかったと悔やんだ。
「うん。平気」
 文緒はといえば、裕介が気を使ってくれたことが嬉しかった。
 裕介の首筋に顔を埋めるようにして、身体を預けた。
「ねえ、今日は私がしてあげようか?」
 裕介の耳元で、文緒がささやく。
「そうだな・・・ じゃあ、口でしてほしいな」
 やはり、裕介は文緒の身体を気遣うことを忘れない。
「悪阻とかあるんだったら、手だけでもいいや」
「大丈夫だけど。裕介は我慢できる?」
 悪戯っぽく尋ねる文緒に、
「子供のためさ」
 裕介は強がって見せる。
 文緒の手が裕介の下半身に伸びたときだ。
「やっぱ、その前に胸はしたいなぁ・・・」
 オッパイをせがむ裕介を、文緒はやはり可愛いと思った。
 裕介の膝の上に腰掛け、文緒はパジャマの前を開く。
 さっそく、裕介がパジャマをかき分けるようにして、鼻先を突っ込んだ。
 鼻腔いっぱいに文緒の匂いを吸い込んで、石鹸、シャンプー、そして文緒の甘酸っぱい
女の匂い。これだけは初めて文緒と身体を交えた時から、ずっと記憶している匂いだった。
 それが、子供ができてからは、ミルクのような甘いにおいが、少しずつ強くなっている
気がするのだ。
 その乳の匂いの錯覚が、裕介を文緒の胸へと誘うのである。
 裕介は、文緒のパジャマの前を完全に開いて、今度は鼻先でスンスンとブラジャーを
押し上げようとする仕草をした。
 文緒が背中のホックを外してくれた。裕介は、鼻先と唇で文緒の体温と絹布のような
肌をたしかめながら、ブラを押し上げる。
 裕介が、押し付けた鼻先がうずまるくらい、文緒の乳房は柔らかい。
 文緒の乳首へとたどりついた裕介の唇が、迷わずそれを含む。
 裕介が、触覚で文緒を捉えていたように、文緒もまた裕介を感じていた。
 こそばゆい鼻息が下乳をくすぐってから、人肌の温かさが乳首を包んだ。そして、
裕介が無心に文緒の乳首を吸い始めた。
 ゆっくりと、裕介の呼吸と同じリズムで、文緒の乳首に負圧がかかる。
『1・・・・・・・・・ 2・・・・・・・・・ 3・・・・・・・・・』
 文緒は、裕介の頭をそっと抱きながら、彼の鼓動を数えた。一呼吸の間に約8回。
 その間、常に胸を吸われ続けていたが、劣情にかれることは無かった。子供に乳を
与えるというのはこういうものかと、ぼんやりと想像していた。



 胸に吸い付く裕介の頭を撫でながら、授乳の練習と思えるのなら、SEXという行為も、
もっと穏やかに好きになれそうだった。
 文緒のたどたどしい母性に駄々をこねて見せるように、裕介の口の動きが下心を抱いた
愛撫へと変化していく。
 唇に吸い付くだけだった乳首に、舌がからみ、根元をほじくる。くわえて、勃起した
乳首をクニクニと舌で転がし始めた。
 その段階になってもまだ、文緒は、いたずらっ子を見守る心境にあった。
 裕介のやんちゃな舌使いが、乳輪をなぞりだしたとき、文緒の手も動きを見せた。
 舌先が、唾液を塗り広げるように乳輪と乳房のなぞりつつ、唇がついばむように吸い付く。
裕介は、乳輪内の小さな凹凸を一つ一つたしかめるくらいに、舌先に神経を集中させて、
文緒の乳房を求める。
 その執拗な愛撫に、文緒を自分が女として催していくのを感じつつ、パジャマの上から
裕介自身に触れた。
「ん・・・?」
 裕介のペニスに触れて、文緒は違和感を覚えた。
「大きくならないの?」
「あぁ・・・ なんかこうしてると、妙に和むからさ」
「そうなんだ」
「そうなんです」
 そう言って、裕介は再び文緒の胸に吸い付いた。
 「ならば」と、文緒は、裕介のパンツの中に手をいれ、直接裕介のペニスに触れる。
 鳴かないホトトギスを、意地でも鳴かせてやろうと思うのが、今の文緒であった。
 文緒が身体をずらすと、チュポっと音がして裕介の口から胸が離れる。
 口惜しそうに、オッパイを追いかける裕介の顎をしゃくって、文緒が唇を重ねた。
そして、間をおかず舌を差し込む。
 裕介は、文緒からの思わぬ攻撃にたじろぎ、されるがままに、口内を蹂躙された。
 己の意思を外れた存在が、口の中で思うがままにうごめく感覚が、裕介には妙にエロティックに
感じられた。
 唇から歯列まで、裕介の口内を隅々まで這いまわる文緒の舌だが、裕介が求めれば、
素直に舌を絡めてきた。
 今までに無いほどの激しいキスに、裕介は、意図せず唇の端から唾液をこぼしてしまった。
 文緒は、手の中で硬さを増していく裕介のペニスに、たしかな手ごたえを感じていた。
人差し指と薬指を亀頭のくびれにかけ、中指で尿道側の海綿体をさすった。
 中指を動かすたびに、つられて動く人差し指と薬指に反応して、裕介のペニスがヒクリ、
ヒクリと痙攣する。
 そのたびに、唇を重ねた裕介の口から吐息が漏れる。
 激しいキスと焦らすような息子への愛撫とのギャップに、感情だけは高ぶった。
 その裕介の心中を見透かしたように、文緒は彼の唇を貪るのをやめて、股間のほうへ
移動する。
 文緒は、パジャマのズボンの上から、裕介のペニスに、そっとキスしてから、ズボンに
手をかけた。
 文緒がズボンを下ろすのに合わせて、裕介は少し腰を浮かせる。ズボンのゴムに引っか
かったペニスが、ボロンと飛び跳ねて顔を出した。
「今夜も元気ね」
「いやぁ・・・」
 そそり起つペニス越しに、自分を見上げる文緒に、裕介は照れ笑いを返す。
 裕介も、文緒もこういうやり取りが好きだった。
 裕介の足の間に陣取った文緒は、まず、両手で優しく包んだ。それから一思いにペニス
を口いっぱいに含んだ。
「あ・・・ あぁ・・・・・・」



 柔らかな感触に包まれる快感に裕介がうめく。唾液を含んだあたたかな文緒の口内が
ピッタリと密着する。これに限らず包まれるという感覚は、男にとって逆らいがたいものなのだ。
 裕介の手は、自然と文緒の頭に添えられ、髪を撫でる。
 裕介は、文緒のさらさらの髪質が好きだった。
 文緒は裕介のペニスを口に含んだまま、口内ではチロチロと舌を動かした。
 ヌラヌラとした舌が、ウラ筋やカリ首をなぞるのが、裕介には心地よかった。
 そのうち、文緒の愛撫に、上下の動きが加わる。
 弾力のある唇が、竿を行き来しながらも、口内では舌がウラ筋を責めていた。
「んふっ・・・・・・ んふっ・・・・・・ んふっ・・・・・・」
 文緒の吐息が、愚息の根元の陰毛を揺らす感覚をくすぐったく思いながら、裕介は腹筋を
ヒクヒクさせた。
 文緒は、その反応を楽しむように、裕介の下腹部に手を置いた。
 文緒の髪を撫でていた裕介の手が、文緒の顔へと添えられる。早すぎるペースに音を
あげた裕介のサインだ。あまりに足早に登りつめさせられ、ペニスの根元がうずいてきたのだ。
 文緒は、一旦、裕介のペニスを奥までくわえて、“タメ”をつくった。
 緩慢な責め方に、裕介が気を抜いたタイミングを見計らい、文緒は唇が亀頭に引っかかる
くらいに頭を引いて、クリクリと舌先で鈴口をほじった。
「ちょっ・・・!」
 思いがけない愛撫に、裕介が抵抗しようとして体を起こしかける。
 裕介が何を求めているのか、文緒に通じていなかったわけではない。が、文緒には
文緒なりの思惑があった。
 逃げようとする裕介を制して、文緒はさらに愛撫を強める。親指の腹でペニスの根元を
押さえつけながら、口の上下運動に連動して空いた手で竿を扱いた。
 根元を押さえられながら扱かれた裕介のペニスは、当然、亀頭へ血液を集中させていった。
 それを狙ったかのように文緒の舌が、膨らんだ亀頭の周りを勢いよくで舐めまわして、
スパートをかける。
「あぁっ・・・! ぁ・・・・・・」
 裕介が、情けない呻き声を上げながら果てた。
 文緒は、裕介のペニスが跳ねると、すぐに穏やかな動きに切り替え、血を堰き止めていた指を離し、
竿を扱いていた手で陰嚢を優しく揉み解して、裕介の射精を心地良いものへと導こうと努めた。
 わずかに負圧のかかった文緒の口内に全てを吐き出し終わった裕介が、短くため息をつく。
思っていたタイミングとは違ったが、愚息の根元に抱えていた違和感も精液と一緒に排出
できたように感じた。これも文緒に感謝だ。
 口内の精液をこぼさないように、唇をすぼめてペニスを引き抜く文緒。
 その動作が彼女の唇のプルリとした肉感を強調させた。
 文緒は、しばらく口元をもごもごさせてから、「んくっ」とひと思いに精液を飲み下した。
 「ふう・・・・・・」と、文緒が、満足そうなため息をついて、萎えはじめた裕介の愚息に
指を絡める。
「あ・・・ あぁ・・・ 不意打ちだったから効いたぜ」
 ゆっくりと勢いを失い始めたペニスが、それでも、刺激に反射してヒクリヒクリと動く
のを可愛らしく思いながら、文緒は、
「自分の思い通りばっかりになったら、マンネリ化しちゃうでしょ? それに女はそんなに
都合のいい生き物じゃないのよ」
 そう言って、小悪魔的な笑みを浮かべてみせる。
「いや、お見それしました。今度は、俺の番・・・ かな?」
「それじゃあ、『愛してる』って言ってほしいなぁ」
 そう言いながら、文緒は裕介の膝の上に登って、まっすぐに裕介を見つめる。
「それで・・・?」
「それだけ」
「え?」



「『愛してる』って言葉で伝えてほしいの」
「わからないな。しなくていいの?」
「うん。だってこういう行為で愛を確かめ合うのだって、もともとは心を満たすための
ものでしょ? なら、愛がこもってれば言葉を交わすだけでも、幸せだって感じられるのも
自然だと思うなぁ・・・」
 そう言って、文緒は裕介の首に腕を回して顔を埋めて、裕介を待った。
「そう言われれば、そうかもな・・・ でも『愛してる』って言うのはちょっと恥ずかしいな」
「愛が足りないと、赤ちゃんは大きくなれないんだから・・・」
 すねたような文緒の耳元で裕介がささやく。
 文緒にも、ずいぶん可愛らしいところがあるのだと裕介は思い直した。
「・・・・・・愛してるよ。文緒」
 ふんわりとした台詞が、文緒の耳に吸い込まれるようだった。
「私も・・・ 裕介のこと愛してる」
 抱き合うぬくもりの中に、裕介は、さっきの文緒の体温を思い出した。
 そして、帳の下りた夜が、なお深けていく。

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

 土曜日の朝。というにはいささか日が高い。
 目覚ましを止めて休んだ裕介は、普段よりだいぶ遅い時間に目覚めた。隣では、愛妻が
可愛らしい寝顔でまだ眠りについていた。
 まだ、未成年とはいえ、専業主婦である文緒の生活は、仕事を持つ裕介に追従する形を
とっていた。裕介が起きれば、文緒も彼の朝食を作ろうと起きてくるだろう。
 だから、裕介は文緒に気付かれないように寝室を出る。
 朝食など、調理などというかしこまったことをする必要はない。食パンと牛乳で腹を
満たせればそれで十分だという、独身男の偏見が裕介にはあった。
 また、文緒を休ませてあげたいという裕介の優しさでもある。
 リビングにさしかかった裕介は、異変に気付く。
 テーブルに近づいた裕介は唖然とした。昨日と同じように、また朝食が用意されていたのだ。
「おはよう。なおくん」
「うわあああぁぁぁぁぁ!」
    /\___/ヽ   ヽ
   /   祐介::::::::::\ つ
  . |  ,,-‐‐   ‐‐-、 .:::| わ
  |  、_(o)_,:  _(o)_, :::|ぁぁ
.   |    ::<      .::|あぁ
   \  /( [三] )ヽ ::/ああ  注※ あくまでもイメージ図です
   /`ー‐--‐‐―´\ぁあ
 キッチンのほうからかけられた保奈美の声に、裕介は悲鳴を上げた。
「今、起こしに行こうと思ってたんだけど」
 そう言って、大皿を運んでくる保奈美は、裸エプロンだった。(もちろん靴下は忘れない)
「えいっ!」
「うわっ」
 あっけにとられていた裕介は、保奈美に押しこくられ、よろけた拍子に椅子に腰をおろした。
「フフッ 今日は洋食よ」
 保奈美の言うとおり、テーブルの上に用意されていたのは洋食だった。おしゃれな
ナプキンがしかれ、三角にカットされた主食のトーストと、保奈美が運んできた大皿には、
ベーコン、卵焼き、菜類と、トッピング用の具材がいっぱいに並べられていた。牛乳など
デカンターにつがれて用意されていた。
「はい。なおくん、洋食のときでも煮物ほしがるよね」
 そう言いながら保奈美は、裕介の前に煮物を盛り付けた小鉢を置いた。
「味が染みるように昨日の夕飯の支度のときから作りお――」
 保奈美が楽しそうに語る途中で、横からスっと伸びてきた手が煮物の小鉢を取り上げる。
 文緒だった。
 文緒は、テーブルの上で一番大きな、具材の乗った皿を空いたもう片方の手に持って、



キッチンのほうに向かった。
 そして、ペダル式のゴミ箱を開けて、煮物と具材を容赦なくそこへ放り込んだ。
 保奈美の作った料理が、ガサガサとゴミ袋を叩く音で、キッチンのほうが死角になって
いる裕介にも、文緒が何をしているのか容易に理解できた。
「・・・・・・・・・」(保奈美)
「・・・・・・・・・」(文緒)
「・・・・・・・・・」(裕介)
 裕介は、恐る恐る保奈美の顔を見上げる。
「・・・・・・・・・」
 保奈美は、“表情の無い”顔でキッチンのほうを見つめていた。その表情に裕介は戦慄を
覚えた。
「おはよう。裕介。朝ご飯すぐ作るからね!」
 キッチンのダイニングから顔を出した文緒は、元気よくそう言った。
「・・・・・・・・・」
 裕介は、まだ口を開けなかった。
「・・・・・・また来るね。なおくん」
 保奈美は、エプロンをとると、裸で(靴下は履いていたが)部屋を出て行った。
「文緒〜〜・・・」
 裕介は、やっと情けない声を上げるのだった。
「あら、いいじゃない。言ったでしょ? 裕介一人のせいじゃないって。私は裕介と
一緒にいたいから、そのために自分にできる限りの事をすることにしたの。裕介は、
久住君じゃないんだから、藤枝さんに遠慮なんかしないわ」
「女ってのは、ホント土壇場になると度胸が据わるもんだな。相手は学校に放火するような奴だぜ?」
「裕介は、何にもしてくれないんだ・・・・・・」
 文緒の声色が沈んだことに、裕介はたじろいだ。
 裕介とて、文緒一人を矢面に立たせるつもりなどなかった。裕介の言いようはあくまで、
危急に陥った男同士が励ましあうために、虚勢を張り合わせるときのものだ。
 日夜緊張を強いられれば、軽口のひとつもたたきたくなるのが男というものだが、
こういった乱暴なコミュニケーション手段は、誤解も招きやすい。
 まさに、真に受けた文緒を不愉快にさせてしまったのではないかと、裕介は危ういだ。
「バカ言うなよ。俺は文緒の夫だせ」
 慌てて出た台詞はずいぶん薄っぺらいものになってしまった。だが、
「そう。よかった!」
 裕介の言葉に、文緒はニッコリと微笑んだ。
『なんだよ。やっぱり肝が据わってるよ』
 案外、裕介は手玉に取られていたのかもしれない。
「・・・・・・ところでご飯は?」
「あ、もうちょっと」
「ここにトーストあるから、ベーコンとか焼くだけでいいよ」
「それは食べちゃダメ! 今日は和食なんだから。今ご飯炊くから、もうちょっと待ってて」
「今からかよ!?」
 文緒は、物欲しそうにトーストを見つめる裕介に気付くと、彼の前からトーストの
のった皿を下げてしまった。
「おい、もったいないだろ?」
 だが、文緒は裕介の不満には耳を貸さない。
「粉末乾燥させて肥料にするから、もったいなくありません!」
「肥料にしても、使わないんだから無駄になるだろ」
「裕介が、仕事でフォステリアナの栽培に使うから、無駄にはならないわ」
「オイ、何で確定してるんだよ」
 もはや、文緒にとって、女の意地であって、道理の入り込む隙間など無かった。



 結局、裕介はご飯が炊き上がるまで待たされたが、そんな些細な不満は、腹が膨れれば
忘れてしまえるものだった。


「ねえ、裕介。今日予定入ってないでしょ?」
 味噌汁をよそいながら、テーブルについた裕介に文緒がたずねる。
「あぁ、ゴロゴロしてようかなっ、と」
「じゃあ、買い物に付き合って欲しいんだけど。いろんな物が、そろそろきれそうなんだけど」
「あー、なるほど」
 ようするに荷物持ちが必要なのだと、裕介は察した。もっとも、裕介にとってそれが
不満なわけではなかった。
「いいよ。どこまで行く?」
「いつものスーパーに行ってから、商店街を回りましょう」
「じゃあ、食べ終わって、一息ついたらいい時間になるか」
 二人での食事を済ませて、それそれ身支度を始める。
 こういったとき、女性の仕度には時間がかかるものだ。二人同時に仕度を始めれば当然
裕介のほうが早くあがる。文緒の仕度がすむまで、裕介はソファーでくつろぐことにした。
ピンポーン♪
「!」
 裕介は、いつの頃からかチャイムの音にさえ、身構えるようになっていた。
 施錠してあるドアノブを、ガチャガチャと鳴らす厚かましさ、
「裕介〜」
 朝っぱらから近隣の迷惑も顧みず、ドカドカとドアを叩き、大声で人の名前を叫ぶ豪胆さ。
 裕介の姉である天ヶ崎 美琴(メインヒロイン)である。
「姉さん! 今開けるからっ」
 人の気も知らずに、マイペースに振舞う姉に呆れ半分で、裕介はドアのほうに声をかけた。
「おはよう。裕介」
「・・・・・・おはよう。姉さん」
 案の定ドアの前には、ニコニコした美琴が立っていた。
「ああ・・・ お義姉さん・・・」
 弓矢を携えた文緒が、奥の方から顔を覗かせていた。
「やだ、お義姉さんなんて、秋月さんはかたっくるしいんだから。あ、もう秋月じゃないんだっけ」
「いいわ、秋月でも。それと裕介のお姉さんなんだから、別におかしくは無いでしょ?」
「そうだけど・・・ それよりなんで弓なんか持ってるの?」
「いや、それは・・・」
「あぁ、これ?」
 たじろぐ裕介をよそに、文緒は、手にした弓矢に目を落としてから、美琴のほうに向き直り、
「最近、うるさい“ハエ”が家の中にはいてくるから、機会があったら始末しようと思って」
「へぇ〜、ハエをも射抜くなんてさすが秋月さんね」
 文緒の意図するところも知らず、呑気に感心する姉に愚鈍さに、裕介はため息を
こぼしたくなった。
「そんなことより、折角だからあがっていって」
「いいの? 今から出かけるんじゃ・・・?」
「え? えぇ・・・ でもなんで?」
 美琴は、これから出かけることを知らないはずだ。文緒は首をかしげた。
「うーん、裕介を見てたらなんとなく、そんな気がしたの」
「あんたはエスパーかっ!」
 裕介は、反射的に突っ込んだ。これはもはや、美琴と長くを共にして体に染み付いた
習癖というしかなかった。
「だって、お姉ちゃんだもん!」



 エッヘンと、美琴は得意げに薄い胸を張る。
「ヤレヤレ・・・」


「ハイ、これ、お土産」
 美琴は、クッキーを差し出す。手作りではなく、市販のものであるのが彼女らしいといえる。
「ありがと。でも、姉さん。杏仁豆腐なんて用意してないよ?」
「そこまで欲張りじゃありません〜」
 美琴は、そう言ってバックから自分用の杏仁豆腐を出した。
 微妙に会話がかみ合わなくも、意思の疎通はできている二人のやり取りを見ながら、
文緒は彼らが間違いなく兄弟なのだと実感した。
 「折角、お土産もいただいたことだしと」、文緒はお茶を用意するために席を立とうとした。
 そこへすかさず美琴が口を開く。
「ほら、裕介気が利かない。」
「なにが?」
「身重の奥さんに余計な手間取らせないの。さっさとお茶を入れにいく」
「何が、欲張りじゃねぇだよ。厚かましいことこの上ないぜ」
 悪態をつきつつも、裕介は席を立った。
 年下の兄弟が、姉の言うことに逆らえないという家族の構図は、どこの家庭でも普遍的
なものなのだろう。美琴と裕介の兄弟もそうであった。
「ごめんね。不出来な弟で」
 裕介をキッチンへ追いやって、美琴にとって文緒と二人で話すにはちょうどよかった。
「そんな・・・。裕介は結構しっかりしてるわ。時々可愛げのあるところもあるけど。久住君
のこともちゃんと考えたりもしてるし」
「そっか・・・ それなりにがんばってるんだ。うん! よかった」
 文緒の短い説明から、おおよそ悟ったのか、美琴の笑顔が輝いた。
「実はね。ちょっと心配してたりもしたんだ。ちゃんとやっていけるのかなって」
「裕介っていろんなことを、そつなくこなしてるけど、実は結構不器用だったりするの?」
「ううん。そうじゃないの。むかし裕介がうちに来たばっかりの頃は、ちょっと変わった
ところがあったから、家族以外の人と一つ屋根の下でちゃんと暮らせてるのかなって」
「記憶喪失だったんだっけ?」
「うん。でも、なんて言うか、それだけじゃなかったかな・・・ そのせいで好きになれなかった
こともあったし・・・」

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

 裕介は、実に突然美琴の前にあらわれた男の子だった。
 裕介が幼少の頃の事を覚えていないように、美琴も裕介との出会ったときのことを
はっきりとは覚えていない。その後の彼との波乱に満ちた生活のせいで、出会いそのものは
平凡さに埋もれてしまったのだ。
 裕介が、最初に天ヶ崎家に訪れたのは、彼が迷子として美琴の両親に連れられてきたときだった。
 両親に手を引かれてやってきた裕介に、美琴はすぐに興味を示した。
「こんにちは。私、美琴。あなたはなんていうの?」
「・・・・・・・・・?」
 美琴がハキハキと質問しても、裕介は何も言わず首を傾げるだけだった。
「美琴、この子は迷子みたいでね。自分のこともよくわからないみたいなんだ・・・」
 美琴の父が、幼い美琴にもわかるように、丁寧に話したのだが、
「変なの」



 美琴は感じたままのことを口にしたので、彼女の父親は少し困った顔をした。
 裕介は、その会話がまるで耳に入らないかのように、ただボウッと前方の虚空を眺めていた。
 それから、美琴の両親は二人で何か相談してから、警察と児童相談所に連絡をとった。
本当は、市役所に連絡できればよかったのだが、役人たちは終業時刻を守ることについては、
他のどんな仕事より熱心なのだ。
 その当時の美琴には、状況がどう推移したのかはわからなかったが、迷子や捜索願が
いなかったため、後日、市役所で裕介の身元照会をするまで、裕介を天ヶ崎家であずかる
ことになった。
 裕介は、自分からは何のリアクションも起こさなかったから、美琴の両親は甲斐甲斐しく
彼の世話をした。
 両親が裕介に付きっきりになることを、特別悔しいとも思わない美琴であったが、世話
をやく両親に対して、裕介がまるで関心を示さないことが不思議に思えた。人の間にあって、
裕介にはまるで生気が無いのだ。
 美琴には、裕介がまるで人形のように思えた。動く男の子の人形。
 次の日、美琴の両親は朝一番で二人を連れて家を出た。
 まず、向かったのは市役所だった。
 この時代、個人を証明するDNAパターンが戸籍の一部として役所に保管されていた。
これに照会すれば、裕介の身元がわかるはずだった。
 窓口の職員は首を傾げてから、何度か端末を操作した。
「・・・・・・該当するものがないですね」
 中年の男性職員の他人事のような口ぶりに、いささか腹の立った美琴の父は食い下がる。
「国外のものは?」
「G7の同様のシステムにも照会したけど、ないみたい・・・」
 職員は、さも困ったような口ぶりで答えたが、「だから、諦めて帰れ」という腹の底が
容易に透けて見えた。あからさまに役人らしい態度だ。
「類似遺伝子で両親の検索はした?」
「え・・・? ああ・・・ えーと・・・」
 そう言われて、職員は初めて両親を検索し始めた。
「やっぱり、無いですね」
「そんな――」
「まぁ、もともと登録されて無ければ、データ上に存在してないし、データベースの存在
しない国から来たのかもしれませんしね」
「正規の戸籍のない人間が、どうやって日本に来たって言うんだ?!」
 職員の怠慢にたまりかねた美琴の父の声に力が入る。
「それは、さぁ・・・? でも、アジア方面からの密入国なら珍しいことでもないですから」
 美琴の父は、もう時間の無駄だと思いきることにした。
「何か手がかりが見つかったら、こちらから連絡しますよ」
 立ち去る美琴の父の背中に、職員が声をかけた。
 その言葉がまったくあてにならないことを、美琴の父は確信していた。
『連絡先も聞かずに、よくも・・・』
 美琴の父が戻って来たとき、美琴の母は、裕介を膝の上に乗せて絵本を読み聞かせていた。
「どうでした?」
「いや・・・」
 夫がもどってきたことに気付いた美琴の母がたずねたが、美琴の父は首を振った。
 美琴の父は、少し離れたところで観葉植物に悪戯していた美琴を呼び戻す。
 美琴は力いっぱい走ってきて、元気いっぱいに父親の足に飛びついた。美琴の父は
お転婆過ぎる娘に苦笑しつつ、彼女と手をつなぎ、市役所を後にした。
 それから、いろいろな施設をまわったのだが、幼かった美琴にはそれがどのような場所
か理解できなかったし、どこを回ったのかよく覚えていなかった。
 ただ不思議だったのが、ずっと知らない子が、裕介が、一緒について来たことだった。



 天ヶ崎家の一行が自宅にもどったのは、だいぶ遅くなってからのことだった。
 家に帰ると、美琴の父が、美琴を呼んだ。
「美琴、大事な話があるから、ちょっと来なさい」
「ハーイ」
 大事な話を聞くときは正座をする。そう教えられていたことを思い出した美琴は、
待ち構えていた両親の前で、正座をして得意げに背筋を伸ばした。
「昨日から一緒にいるこの子だけど、裕介って言うんだ」
「ハイ!」
 あまりに元気のよい返事に、「ちゃんと聞いているのか」と美琴の父は心配になったが続ける。
「それで、お母さんとも相談したんだけど、これからは裕介と一緒に暮らすことにしようと思う」
「どうして?」
「裕介には、帰る家が無くて一人ぼっちなんだ。もし美琴が一人だったら寂しいだろう?
  だから裕介はこの家で一緒に暮らすことにしたんだ」
 美琴の父は、美琴が理解できるように、丁寧に少しずつ説明していった。
「ふ〜ん」
「一緒に暮らすからには、同じ家族になる。だから今から美琴はお姉さんだ。ちゃんと
できるかい?」
「うん、できる!」
 姉になれると聞いて美琴は歓喜した。
 姉というものは、下の兄弟の面倒を見る、よくできた存在なのだ、という観念が美琴の
中にはあった。
 それで、ただ姉になるだけで、自分がよくできる子として皆にうやまわれるものと、
美琴は思い込んでいるのだ。
 一人っ子だった美琴にとって、姉になることへの憧れは、それほど別格なものだったのだろう。
 すっかり舞い上がった美琴は、父が何を言いたいのか理解しないまま返事をする。
『今日から私はお姉ちゃんだ』
「裕介は、のんびりした子だ。この家でも慣れないことも多いだろうけど、ちゃんと
助けてあげられるかな?」
「うん!」
 美琴は、目を輝かせて返事をした。
 もちろん美琴の父はそれを見透かしていたが、美琴が裕介を拒絶しなかっただけでも、
一安心といったところだった。
 こうして“迷子の男の子”は、天ヶ崎 裕介として天ヶ崎家に引き取られることになった。


 次の日を待たずに、美琴の『お姉さん』は始まった。食事の仕方、後片付け、トイレの
使い方、風呂の入り方、さまざまなことを彼是と裕介に指図した。
 「普段から自分でもできればいいのに」と、両親は呆れ半分に感心したものだ。それでも、
美琴が裕介の面倒を見ようとしてくれるのは、ありがたいものだった。彼らとて常に裕介の
そばで面倒を見ているわけには行かなかったのと、同年代の子供の感性による洞察が
裕介によい影響を与えると考えていたからだ。
 美琴の両親は、なにごとにも反応の薄い裕介を心配して医者に診察させもしたが、
IQテストや反射テストを受けさせても、知的障害や発達障害が認められるわけではなかった。
 特別な異常が無いのだから、普段どおりの生活をしていればいずれ回復するだろうという
楽観が医者の見解であった。
 しばらくは美琴の『お姉さん』が続いたが、比熱が小さい、熱しやすく冷めやすいと
いうのだろうか、美琴の性格上長く続くことは無かった。



 もっとも原因の全てが美琴の性格によるもとの決定するのは強引であった。というのも、
裕介は、教えられたことはよく聞き、物覚えもよかったが、だからといって能動的に行動
することは無かった。
 それは美琴に対しても同じで、裕介と美琴の関係は、常に美琴からの一方通行だった。
そうして、張り合いのない裕介の態度に、美琴は彼の相手をすることに、飽き始めていた。
 少女の人格の未成熟さを考えれば自然な結果であったのだが、美琴は、次第に裕介の
世話をやかなくなり、結局裕介はそばにいるだけの弟になってしまった。
 だが、だからといって裕介の情緒面が変化がみられることはなく、相変わらず無気力・
無関心なままであった。
 いつも、視線の定まらない目で虚空を見つめていて、時より窓から景色を見つめること
があった。動物モノのドキュメンタリーのテレビにはわずかばかり興味を示した。
 たまに本を読むことがあったが、大抵子供向けの図鑑などであった。


 そしてまた、美琴の父が新しい家族を連れてきた。
 帰宅した父親を出迎えた美琴は、すぐに父が抱えていたダンボール箱に興味を示した。
「わあぁ!!」
 箱の中を覗き込み、そして歓声を上げる。
 箱の中身は子犬だった。柴犬だろうか? うす茶色の毛並みで、両の目の上に白い
小さなぶちがあり、口の周りの毛が黒っぽかった。ハンサムな犬ではなかったが、三枚目
な外見から愛らしさが滲み出ていた。
 美琴は、精一杯背伸びをして、箱の中で耳をたらしてうずくまる子犬に触ろうと手を
伸ばすのだった。
「ほら、慌てないの」
 そう言ってリビングへむかう父親の周りを、くるくる回りながら美琴は追った。
「・・・・・・おかえりなさい」
 リビングにいた裕介は、父親の存在を確かめると呟くようにそう言った。「家族が帰宅
したら挨拶をする」これは美琴が教えたことだ。
「うちで飼うの? ねえ、うちで飼うの?」
 慣れない環境下で、緊張して振るえる子犬をかまわず撫でながら、美琴はうちで飼いたい
とせがむように何度も父親に尋ねた。
 騒がしい美琴のほうをちらりと見た裕介であったが、またすぐに、いつものように
ぼうっと視線を泳がせた。
「ああ、そうだよ」
 父の言葉を聞くなり美琴は、とびきりの笑顔で歓声を上げる。
「まだちっちゃいのね」
 リビングではしゃぎ回る美琴を嗜めると、台所からやってきた母親が、夫に声をかけた。
「もともと大きい犬じゃないからね。このくらいで普通らしい」
 美琴の母親は、子犬にはしゃぐ美琴とは対照的に、ほとんど無関心の裕介のほうを
振り仰いで、その表情を見つめた。
「そう、すぐには変わらないさ」
 美琴の父は、妻の内心の不安をつぶさに感じ取り気遣う。裕介のメンタル面の発達の
ために動物を飼おうと提案したのは彼女だった。
「世話をしていくうちに、だんだんと変わって来るんだと思うよ」
 美琴の母の肩を優しく抱きながら、美琴の父は言葉をかける。
「えぇ・・・」
 美琴の母は、不安をぬぐいきれない眼差しで裕介を見つめ続けていた。
「裕介。こっちへ来て触ってごらん」
 そう言われれば裕介は黙って従うのだが、トコトコ歩み寄ってきた裕介は膝立ちになって
段ボール箱の中を覗き込んだ。
 裕介は、箱の中の犬に手を伸ばすが、撫でるというよりは、犬の上に手を乗せている



だけだった。
「どうだい、可愛いだろ?」
「・・・・・・犬が?」
 裕介は、何について可愛いか尋ねられたのかわからなかった様子で、少し間を置いてから、
それが犬についてだったのではないかと考えたのだ。
「そうだよ。小さいし温かいだろ?」
「うん・・・」
 父の言うとおりのことを感じたことに間違いはなかったので、そう答えたのだが、やはり、
裕介にそれだけでしかなかった。
 そして、裕介は定位置のソファーのところにもどった。


 この犬は、両親が裕介の療養に動物と触れ合うのが良いのではないか、と知人から譲り
受けたのだが、裕介以上にこの犬を気に入ったのが、美琴だった。
 新たに天ヶ崎家の一員として加わったこの犬は、その愛らしい外見から『コロ』と
名づけられた。
 一晩明けて、ようやく段ボール箱から這い出してきて、ヨチヨチと室内を歩き回る様が、
コロコロとして可愛らしいからというので、美琴がそう呼び始めたのだ。
 現にこの犬の毛は密に生えていて、モコモコとした印象があった。
 それから、さらに数日たって、コロも新しい環境に慣れ始めると、毛並みの中から爪が
ちょっと覗いた子犬の足で、天ヶ崎家の室内を歩き回るようになった。
 かわるがわる家人のところを回りながら、そばによってその様子をうかがった。
 ちょこんと腰をおろし、尻尾を振りながら上目使いで見上げるその表情が愛らしくて、
天ヶ崎家の人々は皆そばによって来たコロをかまってやった。
 それが癖になったのか、コロは実に人懐っこい犬になっていった。
「コロ〜」
 とりわけ美琴は、コロがそばによって来たら、必ずといっていいほど抱擁して身体を
撫でてやった。コロもコロで、尻尾を振って大いに喜びをあらわし、美琴の顔を舐めた。
 裕介は、いまだにコロが可愛いとはどういうことかわからなかったが、そばによって
来たら、とりあえず撫でることがただ習慣になっていた。
 この頃の裕介は、犬を飼い始めた影響というのではなかったが、ぼうっとしているよりは、
動物図鑑を読むことが多くなっていた。
 リビングのカーペットの上で、図鑑に視線を落とす裕介の隣に、コロがやってくる。
裕介は、図鑑に目を落としたまま、コロに手を伸ばし頭を撫でた。これも裕介にとって
ひとつの習慣に過ぎない。
 裕介の愛想のない態度にも、子犬の習性だろうか? コロは横になりお腹を見せて無邪気に
喜びをあらわした。
 差し出した手にじゃれつくコロを見ながら、裕介はこういう仕草をするこの犬も、
この犬が可愛いという家族も、そもそも可愛いとはどういうことなのかと、疑問を抱いていた。


 飼い犬というのは、そもそもずいぶん暇な生き物で、とりわけコロはその有り余る暇を
家人にかまってもらうことに費やしていた。そして、また、美琴もまた、この暇な犬と
遊びたくて仕方のない少女だった。
 だから、コロは、誰よりも自分の遊び相手になってくれる美琴に、相手になってもらう
ことをよくねだったし、また美琴がコロを呼べば、コロはすぐに走りよってきた。
 今もまた、コロは、どこかからタオルをくわえてきて、甘えた声でのどを鳴らしながら、
それを美琴の足に押し付けた。タオルを下におろし、パタパタと尻尾を振りながら座って、
期待に満ちた目で美琴を見上げていた。
 コロに気付いた美琴がタオルに手を伸ばすと、コロは素早い動きでタオルを咥える。



そうして綱引きが始まるのだ。コロはこの綱引きが大好きだった。
 何か適当な長さの布切れを見つけてきては、遊んで欲しい相手の足に押し付けてねだるのだ。
そしてその相手はやはり美琴だった。
 お互いが両端を持って綱引きが始まれば、コロは小さな体を精一杯踏ん張って、タオル
を引っ張る。
 少女とはいえ人間と子犬の体重差は歴然で、コロが綱引きに勝てるわけがないのだが、
ズルズルと引き寄せられては、美琴が力をゆるめるのにあわせて、引っ張り返す。これを
繰り返すのだ。
 傍から見れば何が楽しいのか理解しがたいだろうが、この遊びにコロは毎回目を輝かせた。


「いってきまーす!」
 玄関先で美琴が、父と母にむかって元気よく声を上げる。
「はい、いってらっしゃい」
 彼女の両親もそれに応じるが、美琴の父も母も美琴と一緒に家を出る。
 今日はコロを初めての散歩に出す日だった。だから、父も母も美琴についていく。
 本来なら、この役目を裕介にやって欲しい美琴の母であったが、あせり過ぎるのは
よくないと、夫にたしなめられた。
 美琴の父はある程度度量が座っているようで、裕介が図鑑やテレビに興味を示すように
なっただけでも十分進歩がみられていると受け止め、今はそれだけで十分だと美琴の母を
諭したのである。
 美琴の母もこれに納得した。コロを飼い始めたことが、裕介にわずかながらも動物への
関心を持たせ、それが図鑑に興味を示すという結果に現れたと結論させる状況がそろい
過ぎていたからだ。
 裕介が図鑑に興味を示している理由を、本質的にはまるで理解してはいないのだが、
普通の人の考え方であって美琴の両親に非があるわけではなかった。
 この頃の裕介の思考は、両親が考える以上に不定形なものだった。学習による習慣の
獲得や、知能の発達は必ずしも人間性の発達に同調するものではない。
「いってらっしゃい・・・」
 家の中から、当の裕介の声がした。
 家の人が出かけるときは、いってらっしゃいと声をかける。美琴が教えたことだった。
が、裕介にとってそれもひとつの習慣に過ぎない。
 裕介は、コロの散歩には興味を示さず、家の中で図鑑を見ていたいのだと言った。
 コロを抱き上げた美琴は、玄関を出ると庭にコロをおろした。美琴はコロがすぐに走り
回るのかと思っていたが、コロは始めて着けた胴輪を気にしながら、辺りの匂いを嗅いで
まわった。
 はじめのうちは家人の周りをほとんど離れなかったコロであったが、いくらもたって、
危険がなさそうだと判断すると、狭い庭の中を美琴と一緒に方々探検してまわるようになった。
 初めて散歩は、庭の中だけで終わったが、その後敷地の外へと徐々に範囲を広げていった。

 天ヶ崎家は、町の中心部から離れた住宅街のさらに外縁の、田園地帯との境界のような
ところにあったから、子供が犬を連れて走り回れるような、喉かな場所がいくらも残っていた。
 この頃コロの散歩は、美琴にとってもコロにとっても、綱引き以上の楽しみになっていた。
朝夕それぞれ、コロと一緒に家を飛び出した美琴は、毎日泥だらけになって帰ってきた。
 水田の中を走る未舗装の農免道路を、追いかけっこをするように一人と一匹が駆ける。
子犬のおぼつかない足取りではあったが、コロの走るスピードは美琴を上回っていたが、
それでも美琴は負けじと並走しようとするのだ。
 体を動かし息を切らせる。肉体という実感の源に直接働きかける行為は、美琴の意識を
大いに刺激し満たしてくれた。
 結局体力が続かなくなった美琴がコロに追い抜かれ、立ち止まった美琴がコロを呼び戻す。



するとコロは足の裏が見えそうなくらい前足を高くあげて、はしゃいで、時に転がるように
走って戻ってくるのだ。
 そうして、双方の体力が尽きるまで遊びまわり、帰路につくのが美琴のコロの散歩だった。
 美琴は、服が汚れるのもかまわずコロを抱き上げて帰ってくるので、美琴の母は毎日
泥だらけの洗濯物の相手をする苦労に絶えなかった。


 理性と本能では、どちらが人間の原始的な部分であるか、と考えたとき、大概は本能の
ほうだろうと思う。人間内面的な部分は本能を基幹にそれを抑える理性があるという
イメージを多くの人が持っている。それはいい。
 だが、本能の部分が原始的なものであっても、対する理性の部分が高尚で人間的なもの
であるとも言いきれないのである。理性は躊躇わず、また悔やまない。
 人間が、ことの子供が生き物の死を理解できるようになるのはいつからだろう。
極論してしまうと人は物心つく前から、すでに現象としてその意味を捉えることができる。
それでも回りの大人たちがそれに気付かないのは、子供がその死を悼むとか悲しむといった
言動に示さない、死そのものが感情を刺激する類のことだという概念自体を持たない
からにほかならない。
 これは野生の動物にも同じで、彼らは仲間の死を理解できないのではなく、感情の部分で
捉える事ができないだけなのだ。
 一見矛盾しているだが、進化により獲得したと思えた理性ではなく、本能より端を発した
感情の部分が人間らしい死の実感をもたらしていると思える。


 裕介が天ヶ崎家に来て一ヶ月が過ぎる頃。
 日常の日々が平凡に過ぎていれば、その中で暮らす人々が変わることはほとんどないだろう。
 両親も、美琴も、裕介も、犬のコロもそれはかわらない。
 コロは、窓辺で外を見ながら日向ぼっこしていた。
 くぁーっと、あくびをしながら伸びをして、再び床に寝そべる。
 裕介もリビングのテーブルのところで席についていた。
 美琴は、リビングの入り口のところから、顔を覗かせて、両者の様子を見とめてから、
洗面所に向かった。
 こういう暇な日はコロと遊んで時間をつぶすに限る、コロは少し眠そうにしていたけど、
綱引きに誘えばきっと喜んで相手になってくれるだろう。という算段が美琴にはあった。
 美琴は洗面所の洗い
かごの中から、適当なフェイスタオルを探した。
 タオルを引っ張り出した美琴は、揚々とリビングへむかう。
「プギャッンン!」
 途中、そんな悲鳴のような声を聞いた気がしたが、美琴はたいして気にしなかった。
 リビングへやってきた美琴は、珍しい光景を目にした。裕介がコロと一緒にいたのだ。
 だが、すぐにそれが、珍しいのではなく、様子がおかしいのだと気付いた。
 窓辺に立って見下ろす裕介の足元で、コロが血を流していた。
 それを目にした美琴の思考の中に、ゆっくりと残酷な状況が一つ一つ確実に侵入していった。
 コロは、頭と口元を血で汚していた。直接的な外傷を受けた頭以外にも、鼻血をたらして
いたからだ。
 コロの頭と顔を汚す血の色は、妙に深くておどろおどろしい赤色に感じられた。
 コロはへんに頭を傾けて小さく輪を書くように、ヨタヨタと後ずさり、ズーズーと息を
荒げるたびに鼻血を噴き出して、床に点々と血痕を残した。
 そして、そのすぐ傍に花瓶を手にした裕介が立っていたが、彼は、コロを介抱するでもなく、
ただ、その様子をじっと眺めているだけだった。
 美琴は、咄嗟にコロのところへ駆け寄った。どうしていいのかはわからない。
ただ、状況の異常さだけは体感していた。



「お母さーん! お母さーん! コロがぁ・・・」
 幼子の習性が母を呼ばせた。
 美琴は、動きがおかしくなったコロを抱き寄せた。
 コロ自身も美琴に寄り添おうとするのだが、どうしても、体が痙攣してまっすぐに歩く
ことができないようであった。
 美琴はタオルで、コロの傷口をぬぐってやった。ベットリとした感じの血のりは、
タオルに付くと、やけに鮮やかな赤色に変わった気がした。このタオルも本当はこんな
ことに使うために持ってきたものではないのだ。
 タオルいっぱいに広がる鮮血に、美琴は自体がもはや自分の手に負えないのだと、
思い知らされた。
 美琴があらかた血を拭き終わる頃、コロの動きもだいぶ弱々しくなっていた。
それが美琴には落ちついたように見えた。だが、見えただけである。
 血で汚れた頭も、顔も、きれいにした。変な動きもしなくなった。それでも、コロが
回復したということではなかった。
 そして、まったく動かなくなった。
 その事実は、明確な形にはなっていなかったが、確実に死というものを美琴の心に刻み込んだ。
 それからやっと、騒ぎを聞いて駆けつけた両親は、異様な光景に息を呑んだ。
 唖然とする母親にしがみついて、美琴はこのときになってはじめて泣いた。
「ああ・・・ あーーー! うあああ・・・ あああああ」
 自分を受け止めてくれる母親を得て、美琴は手のつけられない感情を放出させた。
「ばかーーーーーーっ!」
 一頻り声をあげて泣いたあと、流れ出す涙と感情のままに、美琴は裕介を力いっぱい叩きまくった。
「やめなさいっ!」
 多少は冷静な判断力を残していた美琴の父が、二人の間に割って入る。
 さすがの裕介も叩かれたくは無いようで、一応身をかわしたが、泣き叫ぶ美琴の様子を
だまって見ていた。というよりは眺めていたのであった。
 泣きじゃくる美琴を背にして、父は裕介をまっすぐに見つめ、問うた。
「コロを叩いたのかい?」
「うん」
 裕介はまったく悪びれることなく答えた。
 そればかりか、逆に父に尋ねた。
「コロ、死ぬの?」
「ああぁ・・・ コロは死んじゃうね。」
 父は、裕介を抱きしめ、悲しみと畏れを抑えて続けた。
「お姉ちゃんが、どうして泣いてるかわかるかい?」
 裕介は首を振る。知らないからそう答えた。
 コロが死んで、悲しむ理由を裕介は知らない。
「お姉ちゃんはコロのことが大好きだったんだ。大切な家族だったから。大切に思っている
人が死んでしまうのはとても悲しいことなんだ。裕介には今はまだわからないかもしれない。
でも、みんな家族がいなくなってしまうと、とてもつらい気持ちになるんだ」
「どうして?」
「この世に生きてる命には、必ず誰かとのつながりがあって、死んでしまったらそのつながりが
切れてしまう。お姉ちゃんはもうコロと会えないし、コロもお姉ちゃんと会えない。
心が痛むんだ。だから、遊び半分で生き物を殺してはいけない」
「うん」
「いいな? これはお父さんとの約束だ」
「うん」
 裕介は気の無い返事を返す。いつものことだ。
 美琴の母は、裕介が少し変わった子だと思っていた。だが今日の裕介を見て、その親に
なるという事が決して生易しいことではないと思い知らされた。



 その後も、裕介は天ヶ崎家で暮らしていた。それは両親がまぎれもない人格者だったからに
他ならない。
 だが、裕介自身は何も変わらなかった。
 美琴はといえば、元気がなくなったのは言うまでもないのだが、その落胆の仕方が普通
ではなかった。
 誰の目から見ても意気消沈していて、そのうえ、一人きりになるとクスンクスンと
クズリだし、仕舞いには声をあげて泣き出すのだ。
 悲しみというのかはわからなった。喪失感が沈んだ美琴の心から、肉体の認識を忘れさせ、
実感の薄れた身体から心が剥がれ落ちる錯覚をもたらした。
 その感覚が、苦痛であり、なおさら喪失感をかきたてるのだ。
 原因に心当たりのない両親ではなかったが、一人ぼっちになれば時を選ばずに泣き出して
しまう美琴に、手を焼くより心を痛めた。


 あれ以来、美琴はときより庭にたてたコロの墓を見つめていることがあった。
 今もそうして、墓前に立ち尽くしている。
 美琴の悲しみがどういった性質のものなのか。それは本人にしかわからないことなのだが、
美琴の姿を認めてそばにやって来た裕介は、
『コロに会えないから、悲しいんだっけ。コロはこの下にいる』
 裕介は、コロの墓標に手を伸ばす。
「っ!」
 裕介の手が届くよりも早く、美琴がその意図を察知する。そして、振り上げた手を
力いっぱい振り下ろした。
ボコリ!
 と鈍い音がして、裕介がよろめく。
「バカッ」
 そう言って美琴は、家の中に入ってしまった。
 美琴は、半泣きになっていたが、いい気分だった。墓を掘りおこそうとするような
不届きな裕介を叱ったのだ。自分に非は一切無い。
 美琴は、このときの感情が八つ当たりであるなどとは考えもつかなかった。ただ、
悪いことをしようとした裕介を、叱るという大義名分があったと思えたからだ。
「どうしたの? 美琴」
 ぐずりながらやって来た美琴に、母が声をかけた。
「もう裕介と一緒に暮らしたくない・・・」
「・・・・・・・・・」
 美琴は、母にしがみつきエプロンに顔を埋めて言った。
 娘の容赦の無い胸中に、美琴の母はどう言葉をかけていいのかわからず、ただ、頭を撫でて、
落ちつくのを待つしかなかった。


 その夜、美琴の母は今日、美琴が言ったことを夫に話した。
 美琴の父は、美琴の心が裕介から離れつつあることに落胆を隠せなかったが、妻の様子から、
裕介のことで相当参ってしまっていることが気がかりだった。
「すまないね。僕が言い出したことなのに、君にばかり苦労をかけてる」
「そんなことはないけど、やっぱりつらいわ」
「裕介も始めの頃よりはだいぶよくなったと思う。外界のことに興味を示すようになったし、
そのことで行動を起こすようになった。ただ、その行動を起こす理由が僕らが考えてるの
とは少し違うんだ。でも、大丈夫。裕介は僕らが言ってる事をちゃんと理解してくれる。



楽なことではないけれど、いろんなことを一つ一つ教えていってあげよう」
「大きな赤ちゃんができたみたいね」
「ああ」
 美琴の母の表情が、少し和らいだ。だが、それもつかの間のことであった。
 その翌日。
 美琴はリビングのテーブルで、紙細工で花を作っていた。コロの墓前に花を供えたかった
のだが、季節がら生花は手に入りにくかったからだ。
 裕介はその向かいの席で、じっと美琴の手元を見ていた。
 美琴は、まず折り紙で花を作り、そこにハサミを入れて、飾りをつけていった。裕介が
ずっとこちらを見ていることには気付いていたが、美琴はあえて無視した。この花はコロ
のためのものだ。裕介が殺したコロの。
 美琴は、裕介を無視したまま、もくもくと作業を続けていた。
 二人とも口を開くことは無かった。
 が、堪り兼ねて、美琴は裕介に気付かれないように様子を伺った。
 ただの一枚の紙が、花型に形作られていくのが不思議なのだろう。裕介は、美琴の視線
には気付かず、作業の様子を眺めていた。
 裕介を無視し続けていた美琴であったが、沈黙と視線がいいかげん鬱陶しくなっていた。
堆積したそれが、先日の事件と相まって裕介への憎悪へと変わる。
『裕介なんていたってつまらない。おしゃべりしても笑わないし、遊んであげても喜ばないし、
人形みたい。・・・・・・人形?』
 美琴のなかに加虐的な感情が芽吹いた。子供の無邪気さゆえの残酷さとは違う、もっと
凶暴で狡猾なものだ。
「ねえ、裕介。手出して」
 美琴は、言われたとおり差し出した裕介の手をとる。
 暴力的な衝動が、今の美琴に、裕介など人形であると思い込ませていた。
『裕介なんて人形。人の形をした人形』
 剣呑な感情に従う美琴の頭の中では、裕介が人形でなく人間だとしたら、その命を使って
コロを生き返らせようという思考さえ走っていた。
 火の付いた紙切れのように、裕介を排除して、その代わりに何か思い通りにできよう
というイメージが、ヒラヒラと舞い上がっていた。
 もう、美琴の中ではコロを失った怒りや悲しみが、裕介を傷つけることで何かを得られる
という期待のようなものに変わりつつあったのだ。
 美琴は、裕介の手の甲にハサミの刃をあてがい、引いた。
 もともと切れ味の鈍いハサミの刃では、皮膚を切り裂く感触はわからなかったが、
代わりに骨にこすれるゴリッとした感触が、ハサミを伝って美琴の手に届いた。
 さすがの裕介も、痛みからビクリと手を引いた。
 切り開かれた表皮の下の肉が、白く見え、傷口が裕介の手の甲にきれいな横線を引いた。
 美琴は、念願かなってワクワクと心を躍らせた。だが。
 つぷつぷと傷口から血があふれだし、やがて傷口のうえに留まっていた血液が流れ落ちる。
 流れ始めればずいぶん勢いがよく、パタパタと流れ落ちては床に血痕を作っていった。
 その赤、コロの死に直結した鮮血というイメージが、急速に美琴の思考を巻き戻していった。
 裕介を傷つけることで得られる期待感、いたたまれない感情の捌け口を裕介に向けようと
したこと、悲しみと喪失感への恐怖、最後にコロの死にたどりついた。
 コロの死に結びついた感情がフラッシュバックして、美琴の心を揺さぶる。
 コロが死んだときと状況が異なるはずが、あのときの激情の波が再び襲ってきた。
 裕介は、血が流れる傷口を、まるで他人事のように眺めていた。
 裕介の傷を両手で抑えながら、美琴は必死に涙を堪えようとしたが、涙がこぼれたとき、
美琴は同時に声もあげて泣き出した。
 そしてまた母を呼ぶ。
 美琴の母は、美琴の鳴き声を聞きつけて、尋常ならざる自体だと覚悟を決めてきた。



だが、手と足元を血に染めた裕介と美琴を見て、口元を押さえて悲鳴をあげた。
「裕介っ! 美琴っ!」
「裕介の手の血が・・・」
 美琴の母は、美琴の手をどけて裕介の手を確かめる。
 大きく開いた傷口を見て「ひっ」とうめいた。
「どうしたのっ!? 指は動くの?」
 動揺を隠せない声で、裕介を問い詰める。
「お姉ちゃんが切った。指は動く」
 裕介は、いつもと変わらない調子で答える。
「どうしたっ!」
 美琴の父が、遅れながらも居間に駆け込んできた。彼は、さすがに驚いたようであったが、
おおよその事態を把握すると、それ以上何も聞かずに妻に指示を出した。
「タオルを。できれば手ぬぐいみたいなやつ。それが終わったら車の準備を」
「救急車!?」
「いいっ。それより拭くものを早く」
 父の手が、裕介の手を掴むようにして傷口を押さえて止血する。
「裕介、痛くないのか?」
「痛いよ」
 先ほどから顔色一つ変えない裕介に、不安を覚えた美琴の父であったが、裕介はまるで
平静としていた。
「ねぇ、僕死ぬの?」
 裕介の質問に、今度は美琴の父がギョッとした
 父親の後ろですっと泣き続けていた美琴もビクリと身体を振るわせる。
「裕・・・ っく介・・・」
「大丈夫だよ。このぐらいでは死なない」
「ふーん・・・」
「あなたっ!」
 美琴の母がタオルを持って駆け寄ってきた。
「車も!」
「ああ。なら、すぐ出るぞ」
 美琴の父は、裕介の傷口をタオルで縛りながら答えた。
「上から強く押さえて!」
 美琴の父は、指示を出しながら裕介を抱き上げた。


 傷が大きかったため6針近く縫ったが、検査の結果、腱にも神経にも異常は無いという
ことで、両親は一安心した。
 一方美琴は、病院から家までずっと泣きとおしていた。
 病院に行くまでの車内で、裕介を抱きかかえ傷口を押さえていた美琴の母は、血で汚れた
服を着替えようと洗面所に入った。
 美琴の父はリビングで、両隣に美琴と裕介を抱えるようにしてソファーに身体を預けていた。
 今回はさすがに参っていた。
 コロの件といい、今回のことといい、流血沙汰がこれだけ短い期間に続くというのは、
凡俗な人の感覚からすれば当然異常と感じる。
 しかも、今度の事件は美琴が引き起こした。
 コロの一件で美琴が、殺意を抱くほど裕介を憎んでいる、などということは考えたくなかった。
幸いにも左隣で泣いている美琴からは、そんな素振りが見えなかった。
 裕介を引き取ったことで家の中が狂い始めている。どうしてもそんな考えが頭をよぎる。
だが、それを認めてしまったら人として取り返しのつかないことをしてしまうようで、
美琴の父はそれだけは思いとどまった。



「何で泣いてるの?」
 そうたずねる裕介であったが、答えるどころではない美琴の様子に、父の顔を見上げた。
「裕介が怪我をしたからだよ」
「自分で切ったのに?」
「っ! ・・・裕介が怪我をしたことには変わりないよ」
 美琴の父は、自分の言葉がずいぶん冷血的な思考から送り出されたと思った。
「怪我しただけなのに?」
「え・・・?」
「死んでないのに?」
「ああ・・・ そうだな・・・ それでも・・・ な」
 聞き返した後の裕介の言葉に、美琴の父はうまく言葉が続けられなかった。
「人間はね・・・ 頭で考えるだけじゃあ、うまくできないこともあるんだよ。自分だけじゃあ
どうしようもないこともあるんだ。ああ」
 美琴の父は、常に子供たちにも理解しやすいように言葉を選んで話すようにしていたため、
思いついたことを並べただけのまとまりきらない話が、うまく伝わるのか不安に思った。
「悲しいことが無いと、悲しいと感じられない。それはあまり良い事ではないのだけれど、
それでも受け入れないといけないんだ。受け入れるって言うのは・・・ そうだな・・・ 
自分が悲しい思いをして辛かった事を忘れないかわりに、誰かが悲しい思いをしないように
気をつけて、悲しんでいる人を思いやったりできるようにすることか・・・・・・」
 またしても、自分でもわからないほど脈略のない事を言ってしまったと、美琴の父は
再び後悔して、どうしようもなくいたたまれなくなって、二人をかかえるように抱き寄せた。
 裕介は、理解力のような知性自体は優れていたから、父親がなにを言いたいのかは、
きちんと理解していた。それでも、今の裕介にとって学習情報の一つでしかなかった。
 そのかわり、父のまごころから出たこの言葉は、美琴の心に深くしみこんだ。
「お姉ちゃん、ごめんね」
 そこに、裕介の思いやりともとれる言葉も重なった。
 裕介の言動は、学習情報から導き出されただけで、情などこもっていなかったかもしれない。
だが、例え紛い物だったとしても。
『教えてあげなきゃ・・・ 裕介は弟なんだ』
「裕介・・・ ごめんね・・・」
 嗚咽の間から、その一言がこぼれた。
 裕介には聞こえなかったかもしれない。だが、父は二人の頭をしっかりと撫でた。


 それから、再び美琴のお姉さんが始まった。
 以前のような勢いは無かったが、美琴は常に裕介に寄り添った。
 ただ指図するだけでなく、裕介の好奇心が満たされるようにと、いろいろな物を見せ、
いろいろなことを聞かせた。
 図鑑からもっと興味を広げようと、図鑑に載っている草花を採ってくることもあった。
あまり好きではなかったが、虫も捕まえた。
 一緒に手をつなぎ、手を引いて外を歩いた。探検もした。
 裕介を連れていろいろな人と話をした。聞いた。
 どこか負い目を感じて、叱るのは苦手だった。だけど、ダメなものはダメだときちんと教えた。
 たまに裕介が失敗したときは、慰めた。フォローもした。
 すぐに結果が現れない。うまくいかないことのほうが多かった。それのわりに暖簾に
腕押しな事ばかりだった。それでも美琴は、裕介のそばにいることを投げ出さなかった。
 そうしていくうちにいつしか裕介は、自分からも美琴に対していろいろ質問するようになった。
始めは質問するだけの裕介が、今度は美琴に話して聞かせるようになった。
 物覚えの良さと独自の発想力に基づいた裕介の話題は、幼い美琴には難しいものもあったが、
新鮮な知識に美琴は感心した。



 楽しそうに自分の話を聞く美琴の笑顔に、裕介は喜びを覚えた。裕介がはじめて覚えた
人の喜びである。
 自分と外界しかなかった裕介の世界に、美琴の存在が生まれた。美琴通して父母が生まれ、
そうして少しずつ彼の世界は広がっていった。
 理屈めいた父の説教より、一人の人間の感情が裕介の世界を拡大していったのだ。


 美琴の努力の甲斐あって、裕介は無事に美琴と同じ年に小学校にあがった。
「知ってる人にあったら挨拶をする」
「車には気をつける」
「知らない人にはついていかない」
「行き帰りは携帯の電源を切らない」
「はい」
 天ヶ崎家の玄関の前で高らかに宣言する美琴と裕介。それに答える母親。
 こうして防犯上の注意を確認するのが、子供たちの登校前の常であった。
「いってきまーす」
「いってきまーす」
「はい。いってらっしゃい」
 赤と黒のランドセルを揺らして、手をつないで元気いっぱいに走る兄弟の姿があった。

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

「と、いうことがあったのよ」
 そう言って美琴が、昔語りを終える。
「へぇ・・・ 未来のことって、ウイルスのことしか聞いてなかったから、そんなことが
あったなんて以外だわ」
「お? 何の話?」
「昔、裕介の面倒を見てあげたって話」
「見たか?」
「なに言ってるのよ。可愛がってあげたじゃない」
「可愛がった? ハァ?」
「もう、可愛くない。中学校まで一緒にお風呂入ってあげたじゃない」
「えっ!?」
 これにはさすがに文緒も裕介のほうを振り仰いだ。
「ああ、だけど俺は姉さんのことを一度もイヤらしい目で見たことは無いぜ」
「怪しいなぁ・・・」
「いやらしい目で見たこと無いって言うより、女として見たことが無いな」
「なによそれ、失礼ね」
 美琴が膨れっ面になるが、裕介は気にする素振りを見せずに切り返す。
「だいたい、俺と一緒に入らなくなったのだって、母さんに注意されてだろ? その後も
風呂上りに平気で裸で歩き回ってたじゃないか」
 文緒が、今度は呆れ顔で美琴のほうを見る。
「裸じゃないわ。ショーツは履いてたもん!」
「それを世間一般では裸って言うんだぜ?」
 そう言うと、裕介は美琴の前に、湯呑みを置いてお茶を注いだ。停戦勧告だろう。
「う〜〜」
 完全に言いくるめられた格好になった美琴がうなだれる。
「いいなぁ、兄弟って。私、一人っ子だったから」



 その言葉に、美琴がパッと顔をあげる。
「でも秋月さん、もう家族ができたじゃない。“二人”も」
 最後の部分に、妙なアクセントおく。
「ああ、俺達の子だ」
「ぐ・・・・・・」
 美琴の最後の悪あがきも、裕介は居直ってかわした。
 姉に逆らえないようでも、やるときはやる裕介を頼もしく思う文緒であった。そして、
この兄弟のやり取りから、絶対お腹の子にも兄弟を作ってあげようと思った。


 それからしばらく談笑して、3人で家を出た。
 「邪魔しては悪いから」と、途中で美琴と別れた。
 別れ際、美琴が、裕介に耳打ちする。
「心配しないの。何があっても、お姉ちゃんが守ってあげるから」
「?」
 脈略無い姉の言葉を、そのとき裕介は気にも留めなかった。


 裕介と文緒は予定通り、買い物に回ったのだが、彼是と寄り道の多い女の買い物に、
裕介は辟易もしたが、この程度は忍耐の範疇だった。
『必要の無い物を買わないだけ姉さんよりマシか・・・』
「ねえ裕介。これどっちが良い?」
「そっちのほうで良いんじゃないか?」
 そう言って左のほうを指す。
 正直、裕介にとってどうでも良かった。だから、適当に答えた。
「ちゃんと選んでよ」
「選んだって」
 文緒の鋭さに、ヒヤリとした裕介だった。
 予定していた品を全て買い終えて、二人で家路についた、その途上。
「ねぇ、裕介。帰ったら、今夜を一緒にお風呂入らない?」
「そりゃ、大歓迎だけど、もしかして、姉さんと一緒に入ってたっていうの気にしてるの?」
「それは、まったく気にしてないかっていうと違うけど・・・ 私とじゃイヤ?」
「イヤなもんか。でも、姉さんとの事を気にしてるって言うんならなんか悪い気がしてさ」
「裕介にそう思わせちゃうなら、なんか悪い気がする」
「なら、風呂に入って、お互い水に流そう」
 裕介の言葉に、文緒の顔が笑顔で光る。
「姉さんとは、ホントに何もなかったよ。だってさ、姉さん中学校の間一度も無駄毛処理
したこと無いんだぜ。脇とか。」
「ヤダ〜〜」
「ホントだって、少なくとも一緒に入ってる間は、一度も見た事無かったね」


「ただいま」
 きちんと施錠されていることを確認してから、誰もいない室内に声をかける。
 まずは、裕介が安全を確認してから、文緒を中に招いた。
 裕介は、手にしていた荷物をキッチンのほうに置くとリビングのほうへ向かった。
玄関では文緒が念入りに施錠を確認していた。
 ぐるりと室内を見回して安全を確認する裕介。ベランダの戸と窓の鍵に目をやった。
『異常なし』
 と、そう思ったときだ。



 ふと窓から見える、遠方の景色がかすかに歪んで見えた。
 裕介は、目を擦り瞬かせて、もう一度見直す。
『光学迷彩!?』
 窓辺の歪みに、パリパリと雷光が走ると、外縁からズルズルと人影が浮かび上がった。
 窓から差し込む光を遮って、床に影が伸びる。
 逆光を背にして、藤枝 保奈美が立っていた。
「文――」
 裕介がそう叫びかけたとき、保奈美が何かを放る。
 保奈美の手を離れたそれが、弾けて、猛烈な勢いでピンク色のガスが室内に充満していった。
 文緒のところへ走る裕介であったが、人間の足がガスの拡散よりも速いことはなかった。
「ふ・・・ み・・・」
 ガスにあてられた裕介は、薄れていく意識の中で文緒の名前を口にした。


「・・・そ、わがと・・・♪」
「・・・ん」
 目蓋の間から、うっすらと差し込む光がやけにまぶしい。
 裕介は気だるいまどろみの中から、たちかえった。
「包丁こそ♪ 我が友〜♪」
 ぼんやりとした視界の隅で、保奈美が包丁を眺めながら、不気味な歌を可愛らしい声で
奏でていた。悪魔の理髪師を殺して奪った歌だと言われても、彼女のすることなら信じられる
と思えた。
「文緒!」
 文緒の姿を見つけた裕介は飛び起きようとして、はじめて自分の体の自由が奪われている
ことに気付いた。身体をしっかりと椅子に縛り付けられていた。
 どうやら、自宅のリビングのようだ。右手のほうには、同じように椅子に拘束された
文緒の姿があった。文緒は猿轡をかまされ、まだ気を失っているようだった。
「あら、なおくん。目が覚めた?」
 裕介が椅子を揺らす音を聞いて、保奈美がこちらに気付いたようだ。
「藤枝っ、なんだこれは!?」
 保奈美は包丁を置いて、立ち上がり、身動きの取れない裕介のほうに近づいた。
「だってなおくん、最近私のこと全然かまってくれないんだもん」
「当たり前だ、俺は直樹じゃない裕介だ!」
 声を荒げる裕介に、駄々っ子を扱うように「めっ」と叱ると、ポケットから何かを取り
出して、裕介の顔の前でちらつかせる。
 アンプル(薬液が入ったガラス製の小型の封管)だ。
「これなーんだ?」
 保奈美は、裕介の膝の上に座ると、手の中でアンプルをクルクルとまわしながら尋ねる。
『毒!』
 裕介の頭は、反射的に良くないイメージで埋め尽くされた。
 目の前でクルクルまわるアンプルの向こうでは、文緒が気を失ったまま拘束されていた。
 絶望的な状況である。自分も文緒を身動きがとれず、保奈美の今までの言動からして、
文緒がじわじわと毒に侵されて死んでいくのを見せる、くらいの事はしかねないのである。
 裕介は保奈美を顔を見上げる。穏やかな表情のその顔が、裕介には邪悪なものにしか
見えなかった。
 保奈美はニッコリと微笑む。
「これはね。女性ホルモンの一種よ」
 ホルモンと聞いて、裕介は安堵こそしないまでも、最悪の事態だけは避けられそうだと
思った。ホルモンといえば体内で生成される物で、それならさして害は無いだろうという
楽観が生まれた。



 だが、やはり現実はそんな甘いものではなかった。
「これね、妊婦さんに投与すると・・・・・・ 流産しちゃうの&heartes;」
 楽観しかけていた裕介は、一気に突き落とされた。
 強張った背中にいく筋も冷たい汗が流れ、しびれるようにして手足の感覚が末端から
無くなっていく。口の中の味が一瞬で変わり、舌が縮んだような錯覚を覚えた。
「やめろ、やめてくれ・・・ 頼むそれだけはっ! 藤枝!」
 震えながら懇願する裕介を見下ろして、保奈美はまたしてもニッコリと微笑む。
 立ち上がった保奈美であったが、アンプルを裕介の胸のポケットに入れて、トントンと
叩くだけだった。
『な、なんだ?』
 思わせぶりなことをしたわりに、今すぐに文緒と子供に何かするつもりではなさそうな
保奈美に、裕介は全く戸惑った。そして、今度は楽観的な感情は湧いてこなかった。
 裕介の不安をよそに、保奈美はポケットから取り出した別のアンプルを折り、文緒の
鼻先に2・3度近づけた。
 文緒の体がピクリと震えた。
「・・・んふぅ」
 悪臭を払うように文緒は顔を振ってから、目を覚ました。
「んんっ!!」
 目覚めた文緒は、目の前に立つ保奈美に気付いて、逃れようとするが、当然身動きが取れない。
「んん!! んんっんん!!」
 目覚めてすぐの突然の異常事態に驚いているのだろう。何かしらを訴えて唸るが、
保奈美はまるで相手にする素振りも見せずに、また裕介のところに戻ってきた。
「文緒! 俺はここにいる。大丈夫か?」
 「大丈夫だ」とはいえなかった。
 保奈美は一度文緒のほうを振り返ってから、また裕介の膝の上に座る。
 そして、からみつくように裕介の首に腕を回して、唇を重ねた。
「んふううーーー!」
 とたんに文緒が抗議の声をあげる。
 重なった二人の唇が卑猥にうごめく。
 身動きの取れない裕介であったが、文緒の手前、顔を逸らして何とか保奈美の唇から
逃れた。
「もう・・・」
 保奈美が不満そうな声をあげた。
「うんん!! んん! んん!」 
 相変わらず身動きのできない文緒が、唸って抗議していた。
 保奈美は、裕介の膝の上で上着を脱ぐ。服から保奈美の頭が抜けてしっとりとした髪が
流れるのと同時に、豊満な乳房がブラに包まれたまま、ふんわりと跳ねた。
 裕介は生で見るの初めてだったが、たしかに巨乳と言うのにふさわしい、着膨れしない
オッパイだった。
 保奈美は、今度は裕介のシャツのボタンを外して、前をはだけさせた。
 今度は保奈美の番。保奈美は、背中に手を回して、ブラのホックを外した。
 拘束を解かれた乳房が、空気を含んだように膨らんで見えた。寄せて上げてブラで
捏造した虚乳ではない。正真正銘チート無しの巨乳である。
 いや、巨乳というだけではなかった。シミひとつ無い美しい素肌が十分なハリを保ち、
オッパイの外縁を最も女性らしい曲線で形作っている。山頂部の乳輪も相応の大きさで
あったが、決して大き過ぎず、淡いピンク色のたたえていて、シコっているはずの乳首
さえもやわらかいと思わせた。人類共通の財産。ただ単に巨美乳である。
 この魅力が理解できない輩は、病院に行くべきである。
 保奈美は、再び裕介にキスしようとしたが、裕介は顔を背けてそれを拒んだ。
「む〜」



 保奈美を唇を尖らせて不満をあらわにする。
 保奈美は、裕介の膝からするりと下に降りると、膝立ちになって裕介の股間のほうへ
乗り出した。
 保奈美のオッパイの重さが、裕介の太ももにのしかかる。
 不本意ながら裕介の愚息は、保奈美が胸を晒したときから既に肉弾戦の準備ができていた。
 意に反して膨らんでしまった股間を、文緒には見られたくない裕介であったが、保奈美は
容赦なくそこに手を伸ばした。
 ペニスの反りをかたどり、曲線になったチャックを下ろして、中に手をいれ、亀頭が
強く擦れないように手で包んで引っ張り出す。
 裕介の気も知らず、そのペニスは外界に出て雄叫びを上げた。
『身体は正直ね?』
 と、保奈美の目が、裕介を見上げた。
 愛しい男の逸物を目の前にしても、保奈美はすぐにはかぶりつかなかった。
 指を這わせてつついたり、からかうように息を吹きかけて反応を見たり、まるで小動物を
愛でる様に弄んだ。
 裕介は、次は何をされるのかヒヤヒヤしながらその光景を見守るしかなかった。
 保奈美は、人差し指で裕介のペニスの裏筋を撫で上げる。尿道内にたまったカウパー液が
押し出され、鈴口のところからプックリと湧き出す。
 その透明な液体を吸い取るように唇をつけるが、すぐに離した。唇とペニスの間に銀の
糸が張るのを、裕介に見せ付けるように間を置いてから、獰猛な勢いで、今度は根元まで
一気に口に含んだ。
「ぐぅ・・・」
 押し殺したあえぎ声が、呻き声のようになって、裕介の口から漏れる。
 裕介の右て、ちょうど真正面に裕介と保奈美の痴態を見せられる位置にいる文緒が、
その声に反応して、一際大きな声を上げるが、保奈美は完全に無視して愛撫を続けた。
 とうの裕介は、早くも訪れようする限界から逃れるために戦い始めていた。
 こうも早く追い詰められたのは、保奈美の性戯があまりに手馴れているからに他ならない。
技術的なものではなく、弱点を知り尽くした動きと、裕介の身体がそれをあまりに素直に
受け入れてしまうのだ。
「ん、んん・・・ ふぅ! ん」
 保奈美は頭をグラインドさせるたびに、微妙にひねりを加えて、少しずつ異なった場所に
舌を這わせ、不規則なタイミングで亀頭部をクルクルと嬲った。
 この動きは、裕介にとって恐ろしいものだった。グラインドする舌の動きのリズムを
掴んで耐えようとすると、そのタイミング狙ったように亀頭への刺激が襲ってくるからだ。
『苦しいんでしょ? 我慢しないで』
 と、保奈美が目で促す。
 同時に、竿を手で扱き、チャックの中に指をさし入れて、クニクニと陰嚢を揉み解した。
「おっ・・・ あ・・・・・・」
 亀頭、竿、玉袋の3点を同時に攻められて、抵抗空しく、裕介は腰を震わせて絶頂へと
登りつめた。
 保奈美は当たり前のように、裕介の精液を口で受け止めた。ペニスが痙攣するのに
あわせて吸い付き、最後の一滴まで残さず搾り取った。
 保奈美は、精液を含んだ口をモヒモヒして味わっているようだったが、突然眉をひそめて、
コクリと一口に飲み干すと、あまりに突拍子の無いことを口にした。
「なおくん、ちゃんとしたご飯食べてないでしょ?」
「ハァ?」
「栄養が片寄ってるもん。野菜不足ね」
 文緒が、無言で保奈美をにらみつける。
『わかるものなのかっ!? というかわからんだろ普通』
 裕介は心の中でツッコミつつ、反論する。



「そんなことは無い。栄養管理は文緒がちゃんとしてくれてる」
 ハッキリと言い切ったが、本当はあまり保奈美を刺激するのは良くないと思った。
なにより一発ヌかれたばかりの身の上としては、あまり胸は張れない。
「どうかな〜」
 保奈美はすくりと立ち上がると、ロングスカートの中に手を入れて、パンティーを下ろした。
 保奈美がテーブルに置いたパンティーが、重たく湿った音をたてた。
 保奈美はついに文緒の前で本番をこなすところまで見せつけようとするのだと、裕介は
身構えた。だが、
「ゴメンね、なおくん。これ着けてね」
 保奈美が取り出したのは、ピンク色のコンドーム(さくらんぼ味)だった。
「え?」
 裕介にとっては以外だった。保奈美は自分を直樹だと思い込んでいる。そして文緒に
子供ができて一緒になった今の状況を良く思っていない。やもすれば、嫉妬から自分も
子供を身ごもろうとするだろうと、危惧していたからだ。
「もう、なおくん。私達まだ高校生なんだよ。赤ちゃんができても“ちゃんと育てられない”
でしょ。そんなの無責任なのはダメだから」
 そう言うが早い。保奈美はコンドームの封を切ると、包装の中から器用に口だけで中身を
取り出して、そのまま一挙動で裕介の逸物に被せた。早いだけではない。精子溜りの空気も
きっちりと抜いてあった。
 残りの部分を手でヨリヨリと被せて、準備が整う。
 保奈美が、裕介の上にまたがる。
 先ほどは感じなかったが、やわらかい香りが保奈美の髪から漂ってきた。体温によって
気散した汗が、保奈美の甘い匂いを運んで来たのだ。
 キスを求めて保奈美の顔が近づいてくると、なお体臭が強くなる。
「チュ・・・ んふ」
 唇を重ねている間、呼吸するたびに鼻腔から侵入した保奈美の香りが、嗅覚をさかのぼり、
裕介の脳へとしみ込んでいった。この感覚だけはなぜか排することができないのだ。
「いくよ、なおくん」
 裕介のペニスに手を添えた保奈美が、場所を確かめるように先端をヌルヌルと擦り付けてきた。
保奈美のそこは既に準備ができて待ちわびているらしく、それだけで愛液が、裕介の竿を
つたうのが、コンドーム越しにもわかるほどに濡れそぼっていた。
 文緒がくぐもった抗議の声をあげるなか、挿入が開始される。
 何か窪みに引っかかったのかと裕介が思ったところで、ヌルリとペニスの先端が保奈美の
膣に飲み込まれる。
 充血した体温が裕介のペニスにまとわりついてきた。
「ん・・・」
 ゆっくりと腰をグラインドさせ始めたところで保奈美が、顔をしかめる。
 裕介もまた、違和感を覚えた。
 豊富な愛液により、挿入自体はスムーズに行われたのだが、裕介がペニスで感じた保奈美の
膣内は、キツイというより硬かった。
「久しぶりだから、ちょっと痛い・・・ 初めてのときみたい・・・ ねぇ、なおくん、覚えてる?」
 たずねているのではない。覚えてして欲しいという保奈美の願望なのである。もちろん、
裕介と直樹は記憶を入れ替えただけの存在ではない。時空転移装置により作り出された
全く別の存在なのだ。“思い出した”などということで入れ替わる性質のものではないのだ。
それでも裕介に思い出して欲しいのが保奈美なのだ。
「悪いが俺は、直樹じゃないんで、そんなことは知らない」
 語りかける保奈美に、裕介はきっぱりと返した。
 裕介にその気が無くても、男の生理が女との交わりから快感を見出したし、それで
登りつめていってしまう。
 ややピッチリとした着け心地のコンドームにしぼられた愚息は、少し鬱血気味で膨らんで、



感覚が鋭敏になっていた。
 その敏感なペニスを、まだ完全にはこなれていない保奈美の膣肉がプリプリとした触感で
扱き上げる。
 つらつらと幾重にもペニスを撫でる肉壷の刺激が、電撃ようにピリピリと腰の神経から
脊椎を駆け登って行った。
「ハァ・・・ ハァ・・・ ねえ、なおくん。ハァ・・・ 愛してるって言って欲しいなぁ」
 保奈美が息を弾ませながらねだる。
 だが、裕介にとってそれだけは譲れないところだった。彼が愛している女はただ一人。
それも保奈美ではないからだ。
「・・・・・・・・・」
 裕介は顔を背けて、黙する。
「ねぇってば・・・」
 保奈美は食い下がるが、裕介の態度はかたくなだった。
「・・・・・・・・・」
「なおく〜ん・・・」
 保奈美は、甘えた声を出したが、彼女の心根はそう言うものだけではない。
 保奈美は、文緒から見えないように、裕介のシャツの胸ポケットに入れたアンプルをつついた。
 甘い匂い、上気した体温、揺れる乳房、肉壷の快感、文緒が唸る声、全て吹き飛ばす
ほどのインパクトが、胸のアンプルにはあった。
 真っ白になった頭に、背中を冷や汗がつたう感触だけがとどく。
「んむ・・・」
 現実から逃避しできた時間は一瞬だった。保奈美の唇の温もりと、潤いのある触感が、
裕介を引き戻した。
「チュム、フハっ」
 唇が離れると、保奈美は再び、裕介の胸にポケットの上からアンプルを押し付けた。
「・・・いしてる」
「ちゃんと、ちゃんと言って!」
 腰使いに息を弾ませながら保奈美が、叫びながらねだる。
「愛してるよっ」
「! んふふん・・・・・・」
 文緒の絶望が、裕介の耳に届いた。
「なおくん!!」
 本調子ではなかった保奈美の膣壁が一気にほぐれ、どっぷりと愛液がしみ出す。
 保奈美は、裕介の頭を胸に抱き、腰使いを一気に激しくした。
 ついに言ってしまった。事情を知らない文緒には裏切りととられるだろう。
何より間違いなく文緒を傷つけてしまった。現に文緒が声をあげなくなった。
「なおくん!」
 また、アンプルを押し付けられる。
「愛してる」
 裕介は、顔を覆う乳房の感触さえも即物的なものとしか思えないほど、気力が萎えるのを感じた。
 そのままどこまでの沈んでいってしまいたい裕介を、また剣呑な唇が襲う。
 唇を重ねて我に帰る裕介の目の前に、保奈美の顔があった。
 保奈美は、ずいぶん強引な舌使いで、裕介の口内を貪る。侵入させた舌で相手の舌を
狩りたて、その間唾液を流し込み続けた。
 突き落とされては、引き戻される。こんなことを今日は何度も体験させられているような
気がする。そしてまた、保奈美のキスの妙に肉感的な感触が、裕介の意識を性欲とともに
呼び覚ます。
 唾液とともに、無理やりSEXという体感を流し込まれるようだ。
 呆けていた間に、下半身の方は保奈美の媚肉に扱かれて陥落寸前だった。それでも、
抵抗を試みなければならない気がした。文緒へのせめてもの償いとして。



 裕介のささやかな誠意と決意さえ、保奈美は許しはしない。彼が最後の抵抗を始めると、
大きくグラインドしていた腰の動きを変え、局部同士を密着させて、膣の柔らかさと脈動で、
くわえ込んだ肉棒全体嬲った。
「よせ・・・」
 裕介は、下っ腹に力をこめて耐えようとしたが、肉棒の全周囲からの絶え間の無い
波状攻撃に、意図せずヒクヒクと精液を流出させてしまった。
「なおくん、我慢しないで、来て」
 始めの数回痙攣せず射精していたペニスが、大きく跳ねて派手に精液を放出した。
 ドクドクと痙攣する裕介の肉棒の動きを膣内で捉えながら、保奈美は腰をくねらせて、
裕介が心地よい絶頂をむかえられるように努めた。
 裕介が快楽の全てを吐き出し終わった頃、呼吸を落ちつかせた保奈美は、また唇を重ねた。
 いまだ硬さの残る裕介のペニスを開放した保奈美は、中身をこぼさないようにコンドームを
はずすと、口を開けた上につまみあげる。ほどなくして、裕介が出したばかりの濃厚な
精液がたれてきた。
 保奈美は、うつむいた文緒の前でそれを受け止めて飲み下して、
「うーん、なおくんの味」
 満足げに微笑む。
 文緒へのあてつけの極みだ。
 裕介のほうに向き直った保奈美は、彼の股間の前に跪く。
「なおくんってば、節操無いんだから」
 心理と生理は別物であるという証明を見つめては、そう言って指先で、鈴口を撫でた。
 少なくとも快楽からは開放された裕介は、何とか逃れようと暴れるのだが、戒めを
解けるはずが無くガタガタと椅子を揺らすだけに終わる。
「暴れないで、怪我しちゃうよ」
 そういいながら、いまだ硬さを失わない肉棒に指を絡める。
「いいかげんにしてくれっ! 何がしたい?」
「このままじゃ、しまえないでしょ? だから、楽にしてあげようと思って」
 保奈美は、悪びれる様子も無く怒張を口に含んだ。
 まず弾力のある唇がなぞり、続いてたっぷりと唾液を含んだ舌の温かい感触が裏筋を這った。
 裕介のペニスが、ゆっくりと保奈美の口内に納まっていく間、先端から順次快楽に
沈んでいった。
 保奈美は、ペニスをすっかりくわえ込んだが、しばらくはそのまま動かずにいた。
 始めは温かった口内との温度差が徐々に小さくなっていく。やがて、ペニスがすっかり
温められ双方の体温の差が消える。
 すると不思議なことに、肉棒に密着した保奈美の口内の感触との境界が薄れて、肉棒の
触感が消えたのだ。いや、愚息本体は決して消えていない。実際に心地よい体温の温もりを
感じ取ることはできるのだ。
 不思議な感覚だった。長年ともに戦い続けてきた砲身の代わりに、何かぼんやり温かい
ものが寄り添い。その不定形な物の中から、心地よさだけが伝わってくるのだ。
 保奈美は、一回目のフェラのときとは違い、激しい動きはもちろん、頭を動かすこと
すらしなかった。ただ口内を扇動させて裕介を快楽へと誘おうとした。
 裕介の体が素直にそれに誘われていくのは、保奈美の口撃が、相手を射精させよう
というような強引なものではなく、あくまで相手に快楽をもたらそうとする性質のもの
だったからだ。
 保奈美は、裕介のモノを咥えつつ、両手で太ももを優しくさすった。その手つきは、
性感帯を責めているのではなく、母親が子供にするように、ただ優しく撫でるのと同じだった。
 唐突に、鈴口から何か流れるのを感じて、裕介は小便でも漏らしたのかと思ったのだが、
愚息の根元がわずかに痙攣しているのを感じて、それが射精であると気付いた。
 先ほど保奈美の膣内で射精した感じに似ていたが、今度は全く自覚が無いままイカされてしまった。
 通常の射精感と違い、強弱の波に途切れることが無く、痺れるような射精感が驚くほど



長い時間裕介を支配した。
 わずかに負圧をかけられ、潮に引かれるように精液を抜かれながら、信じられないほど
早くイカされた自分を情けないと思うほか無かった
 保奈美は裕介が発射したものを、砲身を咥えたまま飲み込んでいった。当然、その間も
口を扇動させるのを忘れない。
 裕介の射精が終わってからも、保奈美はペニスを口に含んだまま、ゆっくりと舐り続けていた。
フェラを始めてから、裕介が達するまでの時間より長いほどだった。
 そして、ようやく離した肉棒は、棒というには頼りなく、すっかり萎えて、プルリと
保奈美の口から出てきた。
 保奈美の口から解放されて、放り出された外界の空気がやけに冷たくて、裕介は自分の
ペニスの触覚を取り戻した。
 裕介は、本当に空っぽになった気がした。そのわりにそれほど激しい行為ではなく、
実際身体が疲れたと感じることは無かった。あくまでも保奈美にされたのでなければ
心地よいものであっただろうと思った。
 保奈美は、裕介の萎えた主砲についた唾液を、唇を使ってきれいに拭い取った。
 それが終わると、亀頭にキスしてから、大事そうにパンツの中にしまい、チャックを
閉じて、裕介の身だしなみを整えた。
 それから自分も服装をただす保奈美。周到な彼女は代えの下着まで用意していた。
「じゃあね、なおくん。ちゃんと栄養のバランスのいいもの食べてね」
 保奈美はアンプルを回収すると、先ほどの包丁で裕介の手を縛っているロープを切ってくれた。
 裕介は、保奈美の言うことは無視して、自由になった手で残りのロープをほどくと、
急いで文緒の元に駆け寄る。
 裕介の態度に、保奈美はしょんぼりしながら、天ヶ崎家を後にした。
 裕介はまず、後ろ手に縛られている文緒の手のロープからほどいた。それからグルグル
巻きにされた体のロープをほどいてやったのだが、裕介にとって文緒が自分でロープを
ほどこうとしないことが気がかりだった。
 ロープをほどき終えると、文緒が突然立ち上がる。
 戸惑う裕介を、文緒はじっとにらみつけた。
 視線を叩きつけられた裕介は、めまいを覚えた。文緒の目には、憎しみと怒りに満ちて
いたからだ。
 だが、裕介はその憎しみと怒りが強がりで、内に秘めた悲しみが覗くのを、目じりに
溜まる涙で知った。
 文緒は、一言も口を利かずに、裕介を突き飛ばすようにしてリビングを出ると、
また自室にこもってしまった。
 間をおかずに、文緒が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。それが何より裕介にはこたえた。
 文緒の容赦ない泣き方は、心の箍が外れてしまったのではないかと思えた。
 裕介はソファーの足元で体を丸めて、力いっぱい耳を塞いだが、周りの音が無くなれば
無くなるなるほど、彼の耳は小さくなった音の中から文緒の悲鳴を否応なしに拾って、
裕介に認識させた。
 裕介は、歯を食いしばって体を小さくして震えるしかなかった。


天ヶ崎家を出た保奈美は、吉田 拓郎の“純”を口ずさみながら、夜の住宅街を歩いた。



                                                   つづく