7-266 名前: 灰色 猫 [sage] 投稿日: 2007/06/18(月) 00:33:13 ID:5V5gd/8z

第3話 プリンと良識

「…なおくん! …なおくん! 起きて」
「ん… んぅん」
 まどろむ裕介のわきで誰か呼びかけていた。
 それでも、裕介が寝起きの布団の心地よさから抜け出してまで、その声に応じることはなかった。
「もう…」
 目を閉じた暗闇の中で濁って揺らめく意識は、シーツの生暖かい感触を認識するだけでよかった。が、
シャっと、勢いよくカーテンが開かれる音だろうか? がするのと同時に、瞼を
突き通して網膜に太陽光が突き刺さった。
枕に半分埋めていた顔を、背ける事ができず、強烈な朝の日の応酬から逃れるために、
否応なく身体を起こさざるを得ない。
誰もがそうであるように、裕介は寝ぼけながらも、確かに不機嫌だった。
「……文緒?」
 裕介がムっとした声で呼びかける。
「おはよう。なおくん」
 保奈美の顔が視界いっぱいに広がり、
「うわぁっ!」
 裕介は悲鳴を上げる。
 その声に起こされた文緒が、裕介の背後でのそりと身を起こした。
「うそ!? なんで?」
 文緒が発した第一声はそれだった。二人のためだけの寝室に入り込んだ保奈美の姿が、
強烈な一撃となり眠気を吹き飛ばしたのだ。
 裕介は、昨夜の行為のあとのまま全裸であったが、それでも、とにかく文緒をかばうようにして、
その身を盾にする。
 保奈美は、そんな裕介を前にしても、文緒の事などまるで気にしていなかった。
「なおくん、のんびりしてると遅刻しちゃうわよ」
「いつの間に入ってきたんだよ」
 裕介は、精一杯すごみのある声で尋ねてみたが、保奈美のは質問の答えになっていなかった。
「もう… なおくんがお寝坊さんだから、毎日起こしに来てるじゃない」
「そんなことを聞いてるんじゃない。それに俺は寝坊なんかしない」
 裕介は、できる限り直樹の存在した事実を否定するように努めて突っぱねた。
「朝ごはんできてるから。遅刻しそうでも、朝ごはんはちゃんと食べないとね」
 そう言って保奈美は、振り返らずに部屋を出た。
 裕介は、恐ろしく思いながらも、様子をうかがうために後を追った。全裸では心もとなかったので
パンツだけは身につけた。
 寝室のドアのところから半身乗り出して、リビングに出た保奈美の姿を見とめる。
 少なくとも、こうして保奈美の姿を確認しているあいだは、文緒に危険はないのだ。
 保奈美は、キッチンのゴミ箱に、身につけていた水色のエプロンを放り込むと、
リビングから廊下へ出た。
 それを確認してから、裕介はリビングのドアまで移動する。
 途中、リビングのテーブルに並べられた料理に気がついた。保奈美の言っていた朝食だろう。
 定番のご飯と味噌汁、焼き魚のほかにも朝食とは思えないほどの品数が、テーブルの上を
彩っていたが、ハンバーグだのエビフライだのといった豪勢なだけの物はなく、
漬物や卵焼きのような素朴な家庭の味を宿したメニューだ。
寝起きの空きっ腹のせいか、なぜか、その匂いに異常に美味そうに思えた。
料理を前に、つまみ食いしたい衝動を抑えて、裕介は保奈美の姿を追った。
「また、来るね…」
「二度と来るなっ!」
玄関のドアをくぐる前に振り返った保奈美に、裕介が怒鳴った"直樹の声"が突き刺さる。



「…たくっ」
 裕介は、ドアが閉まると忍び足で近づき、カギを閉め、念を入れてチェーンもかけた。
『昨日も戸締りはしたのに、侵入された気が…』
何もしないよりは、マシだと思いたかった。

 保奈美にとって、裕介が自分(直樹)を否定する様は見ていて痛々しかった。
 いくら保奈美が、裕介に直樹として接しても愛する人は帰ってこないだろう。だが、
彼女自身が、直樹を再生する手段に科学だけに傾倒した即物的な方法を信奉してしまうのは、
あまりにも冷徹であり受け入れがたいものであった。
 その心根があるから、保奈美は、どれほど裕介に蔑ろにされても、彼に近づき
傷つけられることをやめられないのだ。
 直樹を愛している。
 だから、彼を奪ったあの女に復讐してやりたい。
だから、文緒が身ごもった、愛しいはずの直樹の子を、殺してしまおうと発想しては、
自分の獰悪さに自己嫌悪で苦しみ。このまま裕介を抱きこみ、文緒から奪い取ってしまおう
と考えては、直樹を否定して不毛な復讐にはしる自分のあさましさに苦しんだ。
直樹とともにありたい、直樹の子に愛情を注ぎたい、そう心にありながら、その思いの表裏で
虚しさに連なる衝動を生み出してしまう。
そこから解脱し救済される方法が、文緒への恨みを忘れることだと知りながら、
それで裕介が直樹に戻ることもなければ、文緒が直樹(裕介)を手放すはずがない、
という絶対の事実がそれを許さない。
 冷酷な外界と、内側から心を蝕む邪気に苛まれる保奈美であったが、泣くことはなかった。
 彼女を優しく慰めてくれる直樹はいないのだから。

 玄関を施錠した裕介が、とりあえず何もなくて良かったと、ホッとため息をついたときだ。
ガチャーン!
 リビングから何が割れる音が響いた。
『しまった!!』
 裕介は、油断した己の不覚を呪いつつ、リビングへと短い廊下を走る。
ガチャーン!
 裕介が、リビングに踏み込んだとき、また一つ割れた。
「文緒っ!」
 裕介が叫ぶ。
 文緒は健在であった。が、裕介は安堵するより、目の前の異常な光景に唖然とした。
ガチャーン!
 文緒が、料理の載った皿を床に叩きつけていたのだ。
「おいっ、何やってんだよっ」
 怒鳴る裕介の問いかけには答えず、文緒は、ハアハアと息を荒げたままムスッとした
表情で、リビングを出て行ってしまった。
「文緒…」
 自室にこもった文緒は、裕介がいくら呼びかけも返事をしなかった。
 他に文緒を慰める方法を思いつかなかった裕介は、仕方なくリビングを片付ける事にする。
「あーあ、やれやれ…」
 改めて見るリビングの惨状に、裕介は思わず洩らした。
 皿の破片と料理の残渣が、そこかしこに飛び散り、足の踏み場もなかった。
ふと、皿の破片で文緒が怪我をしなかっただろうか? という心配が頭をよぎった。
 だが、今はそれを確かめる方法はない。やむなく部屋を掃除する事に集中しようと思った。
 惨状の後片付けを終えた裕介は、炊飯器に残っていたご飯と、インスタントの味噌汁で
朝食を済ませる。
 裕介は、文緒のそばにいてやりたいと思うが、今の文緒はそれを望んでいないだろう。



『文緒が無事だっただけ、良しとするしかないか…』
 手持ち無沙汰になってしまった裕介は、学校へ仕事をしに行こうと思い立った。
 裕介が文緒と暮らすようになったとき、彼にはサンクチュアリの構成員として、フォステリアナを
栽培する仕事が与えられていたのだ。所帯をもつことになりながら、この時代では正規の
経歴がない裕介にとって、これはありがたかった。恭子や結には、もう足を向けて寝られない。
 裕介は、出掛けになってから、蓮見学園の制服が用意されていることに気付いた。
こんなものを保奈美がどこから調達してきたのか理解しかねたが、埃ひとつついていないブレザーと
ピッチリとアイロンがけされたズボン、さらにYシャツまでパリっと糊付けされていた。
 自分に付きまとう保奈美のことを、ほとんど知らない裕介であったが、几帳面さは見てとれたし、
よほど直樹という男のことを愛していたのだと容易に想像できた。
 しかし、これを着ていく気にはなれなかった。
「じゃあ、仕事いってくるから… ご飯テーブルの上に用意してあるからな」
 文緒の分の朝食を用意したあと、ノックした彼女の部屋のドア越しに裕介は呼びかけた。
『結局、夫らしいことは何もできずに仕事に逃げる… か』
 卑小な自分に辟易しながら、裕介は家を後にした。



 人のその人生の中に、どれほどの苦悩を抱えていようと、本来、人の群れである社会が
個人の苦しみを汲みとる事はしない。その一面だけを見て冷徹であると判断してしまうのは
早計であろう。
 冷徹であるのは確かなのだが、その凡雑さがなければ、人の世は個々の人々が抱える
苦しみに押しつぶされてしまう。
 凡雑な人の世の愚鈍は、蓮見学園の教室にもはびこっていた。
「藤枝さん」
「はい」
 朝のホームルームの出席確認で、生徒たちの名前を呼ぶ結教諭の声が、保奈美を呼ぶ前後で
にわかに緊張の色を含んだが、保奈美は窓の外を眺めながら、普段と変わらない声で返事をした。
 そのやりとりの本質がどういったものであるのか、知る者はこの教室にはいない。
 本来、理解できるはずの者も一人いたのだが、彼女は自分の点呼が終わったら、
そそくさと居眠りを始めていた。

 ホームルームが終わり、教室を出た保奈美のあとを、結がキュルキュルと追う。
「藤枝さん…」
 ちょうど階段の踊り場に差し掛かったところで追いついた結が、保奈美に声をかけた。
 休み時間の校内は、生徒たちの発する喧騒がにわかに漂ってはいたが、そこは結と保奈美の
二人だけだった。
「なにか?」
 階段を下りかけた保奈美が答える。
「二人のこと、どうしても許しては、もらえませんか?」
 結の言いようが癪に障った保奈美は、質問には答えず逆に聞き返した。
「先生が、そんなこと言うのは、教師だから? それも"アレ"(裕介)を作ってしまったからですか?」
「確かに、教師だからというのもあるます。でも、今は純粋に人として、あの二人に
幸せになってもらいたいと思ってます。」
 保奈美は、結のほうを振り返ることなく聞いていた。
「あなたが、久住君を愛していたことはわかります。でも、秋月さんと裕介君が
愛し合っていることだって。まだ若い二人が、これから子供を生み育てていくのは、
大変な苦労があると思います。でも、力をあわせて、それに立ち向かおうとする二人の
間を結びつける愛も、間違いなく本物だということが、藤枝さん、あなたになら
わかるんじゃないですか? 私は、あなたにもそれを信じて、見守ってほしいんです」



「教師としてとか、人としてとか、……よく。…そんなことが言えますね」
 呟くように言った保奈美の声色には、悲しい色が含まれていた。
「なおくんは、もういないから。生徒じゃなくなったから忘れられるんですか? 
なおくん、あの事件のせいで、ご両親のことも覚えていないんですよ。私、もう知ってます。
あの事件がどうしておきたのか。それを今まで捨て置いて、よくそんなことが言えますね…」
 保奈美はそれだけ言うと、階下へ降りていってしまった。
 時空転移装置の事故のことを持ちだれては、返す言葉のない結には、その背中を見送る
ことしかできなかった。



 その日の夕刻。
 初夏の太陽が、山並みに沈みかけてもなお、東の空は夕焼け前の淡い水色をたたえていた。
 結は、時計塔の最上階にある、時空転移装置のコントロール端末にむかって、キーボードを叩いていた。
 指が義体化してボッブミサイルランチャーになっても、タイピング速度は衰えることがなかった。
 時空転移装置が発するマシンノイズを掻き消さんばかりの勢いで、結のタイプ音が響く。
 この部屋の出入り口となるドアはひとつだけで、通常は常に施錠されているのだが、室音に埋もれ、
音もなくそのロックが外れる。
 解除されたと言うほうが正しい。サンクチュアリの中でも最高レベルのセキュリティーを破ったのだ、
誰であるか説明は要るまい。
 クーラーボックスを携えた保奈美は、まっすぐに結のところへ向かうと、横から結が
操作する機材のモニターを覗きこんだ。
「きゃっ!」
 しばらくして、人の気配を感じて振り返った結が、すぐそばに保奈美の顔があったことに
驚いて悲鳴をあげた。
「ど、どうやってココにっ!? というか、いつのまに?」
「今さっき来たばかりですよ?」
 保奈美は、装置から離れたところに置かれている長椅子のところまで下がって、言った。
 結は、保奈美を正面に捉え、隙なく低反動キャノンとボッブミサイルランチャーをかまえた。
 結を警戒させたのは、以前の保奈美がまとっていた穏やかさを、今も帯びていたからだった。
ここ最近の保奈美からは感じられなかったものをだ。
今朝方のやり取りのときもそうだが、直樹が裕介になり、文緒と暮らすようになってからの保奈美とは
あまりに違いすぎるのだ。
これが、本来の保奈美であると信じたい結であるが、そう軟弱ではいられないのは、
彼女の生い立ちがそうさせているのだ。今の保奈美には間違いなく策意の色が見えた。
「先生、そんな怖い顔しないでください。ちゃんとお土産だって用意してきたのに」
 そう言ってクーラーボックスのフタを開ける保奈美の声は、軽やかだった。
「!」
 結は、目視で確認するより早くクーラーボックスの中身が何か、理解した。
 フタを開けた瞬間に漂ってきた、常人では匂いと認識することさえ不可能な、
わずかな数の分子を、正確に嗅覚したのである。
「プ、プリンですか…?」
 皿の上にプリンをあけ、生クリームを搾ってデコレーションを施した保奈美が、
ニコリと微笑む。もちろんさくらんぼのトッピングも忘れてはいない。
「プリン… なんですね!」
 プリンの甘い誘惑(中毒?)に誘われて、キュルキュルと結が踏み出したときだった。
『ダメよ、結。これはきっと孔明の罠よ』
 天環を輝かせ白衣をまとった白い翼の天使が、結を嗜めた。
「そ、そんな、いきなりプリンをちらつかせるなんて、不自然です」
「せっかく作ってきたのに… 捨てちゃうのももったいないなぁ」



 保奈美は、お皿の上でプリンを揺らしながら、さも残念そうに呟く。
『結、何をしているの? このままではプリンが生ゴミになってしまうわ。地球環境のためにも早く』
 角と尻尾の生やして、コウモリのような翼をもった悪魔が、フォークのような三又の
槍を振り回して、結をそそのかす。
「そうですよね… 地球のために出されたものは、きちんと食べなければ。それに一個くらいなら…」
『油断してはダメ。もしかしたら毒が入っているかもしれないわ』
 プリンの重力に引かれ、保奈美の元へとキャタピラを進める結の頭の上を、プリンの天使が
小うるさく飛び回る。
『なんてことを! 自分の生徒を疑うなんて、教師として最低だわ。結、あなたは
そんな人間じゃないわよね?』
「そ、それは…」
 そう言う悪魔ではあるが、ここ最近の保奈美のありようを見れば、疑いを抱くのは当たり前だろう。
だが、目の前のプリンは保奈美を信じろといって聞かないのである。
『体の良い言葉に騙されてはダ――』
 口上の途中のプリン天使の身体を、飛んできた果物ナイフが貫き、そのまま壁に磔にした。
「えっ!!」
「先生! あ〜ん」
「ん? むぐぐ…」
 驚嘆する結の口に、保奈美がスプーンでプリンを押しこんだ。
「んんっ!」
 とたんに驚嘆が感嘆へと変わる。
「お味はどうですか、先生」
「まず、香りがすばらしいです。バニラエッセンスを使わないで、本物のバニラを使いましたね?」
「御名答。さすがですね」
「卵も黄身の部分をたっぷり使ってますし、それに甘さ加減も絶妙で」
「気に入っていただけました? まだ、たくさんありますからね」
 和気藹々とした会話を続けながら、保奈美は時空転移装置のメインコントローラーの前に陣取る。
 プリンに夢中の結を横目で見てから、コントローラーの下方の外装パネルをはずし、
引っ張り出した配線と、持参したノートパソコンを接続した。
 コントローラーのモニターに、いくつものウインドウが開き、保奈美のキータイプに
合わせてすさまじいスピードでコマンドが走った。
 保奈美は、時々ノートパソコンの画面と時空転移装置のモニターを見比べながら、
結に負けない速度でキーを入力していった。
「やっぱり藤枝さんは、料理の天才ですね」
「ふふ、ありがとうございます」
 結の賞賛に適当な相槌を打ちつつ、保奈美はなおも作業を続ける。
「ところで先生。TT−32のレベル8のセキュリティーパスってなんですか?」
「それなら、"それ行けトビ太"で解除できますよ」
「ありがとうございます。クーラーボックスの中の小ビンに、メープルソースが入ってますよ。
カラメルとはまた違った味わいをどうぞ」
 スラスラと口を割った結に、保奈美は気分がよかった。
 最深層の防壁を突破すると、保奈美は後の作業をツールに任せて、背もたれによりかかった。
 ノートパソコンのモニターに表示されたゲージが、作業を達成して少しずつ伸びていくのを眺めながら、
保奈美は、結を横目で一瞥する。
 飽きもせずプリンをほおばる少女(のような)のしぐさに穏やかな笑みを浮かべた。



 オレンジ色の夕焼けに染まった空が、紺碧に塗り替えられるころ、板垣茉理は、
町の西側に連なる山の中で時計を見た。
 予定時刻まで8秒。
 いささかも早かったが、茉理は、マシンのセーフモードを解除して、エンジンに再び火を入れた。
 マシンとは、今回の作戦にあわせて、保奈美より受領したフライング・アーマーである。
 自立飛行能力を備えたビーム砲というのが建前ではあるが、人間の上半身を模した
フレームの中央に拡散ビーム砲を内蔵し、本来腕が生えているべき肩の部分に多連装有線ビーム砲を
搭載していた。
セミ・オープンタイプのコックピットに、射手を搭乗させて飛行が可能で、なおかつ十分な
運動性を備えたそれは、もはや一個の機甲兵器であった。
 これほどのオー・テク兵器(ビーム兵器も十分オー・テクだが)を、保奈美がどのようにして
建造したのかはわからなかったが、なんにせよ保奈美の天才的な頭脳と直樹への妄執のなせる業だろう。
ギルルルル……
 良好な吹き上がりでエンジンが回転数を上げていくのを確かめ、茉理は機体を上昇させながら、
システムに機体の各部位を自己診断させた。
 山並みを覆う樹木の上に、マシンの半身だけ乗り出す程度まで上昇させて、茉理はゆっくりと機体を旋回させる。
強大な鉄の塊が自分の操縦以上に滑らかに駆動する事に、保奈美の繊細さを感じずにはいられなかった。
遠方に位置する蓮見台学園を正面に捕らえる。丘陵地帯の上に陣取る学園の校舎は、
かすかな夕日に照らされ、わずかにその輪郭を浮かび上がらせていた。
システムからオール・グリーンのレポートがかえってくるのを確認してから、茉理は、
ほんの少しだけマシンの高度を下げ、学園を視界に捕らえたまま機体をスライドさせるようにして
木々の間を縫って稜線伝いに移動を開始した。

樹木の生い茂った山間と住宅地との境界で、茉理は、マシンを空中に静止させて学園の様子を覗う。
もちろんマシンの輪郭を、樹木で隠すことは忘れない。
メインモニターに表示されている望遠画像と、肉眼で見えるの学園を見比べてから、
茉理は時計に目を落とす。
マシンの機嫌に任せて、少し急ぎすぎてしまったようだ。
急ぎすぎるのも、引き際を知らないのも困る。それが、作戦前に保奈美から注意されたことだった。
当初立てた予定通りに行動できることがベストなのだ。
不測の事態の有無など問題ではない。"不測"などというものが存在しないように予定を立てることが
重要なのだ。
仕方なく、茉理はその場で待機する事になった。
茉理の視線の先で、蓮見台学園の校舎が、わずかに残った夕焼けをバックに影に染まっていった。



 プリンに溺れる結を眺めていた保奈美であったが、袖を少しずらして手首の時計を確認してから、
口を開いた。
「先生。今朝の答えをもらっても良いですか?」
「え?」
「先生はもう、なおくんのことはどうでも良いのかってことを。なおくんの記憶を消しておいて、
なぜ今まで何もしなかったのか、ってことですよ」
 穏やかな声色で問う保奈美の瞳の奥には、狂気と殺気の色に染まっていた。
 忘れていた、あれ以来の保奈美がそこにいた。
「ふ、藤枝さん!? そういえばさっきから何をしてるんですかっ?」
「なおくんを取り戻すために、いろいろと情報収集してるんですよ。それよりも先生――」
「飛び太に勝手なことしないでください! 今すぐに――」
 今度は保奈美が、結いの口上をきる。



「あら、先生がパスワードを教えてくれたんじゃありませんか。自白剤を盛ろうかと思いましたけど、
必要なかったみたいでしたね」
 ゆらりと一歩踏み出した保奈美の手の中でギラリと文化包丁が光る。
「ねぇ… 先生…」
 結は、食べかけだったプリンを急いでかき込むと、戦闘体制をとる。
「なおくんの記憶を消した事に責任を感じたことはないんですか? むしろ、なおくんが
消えて好都合だとか思ってますか?」
「それ以上近づいたら撃ちますよ!」
 体反動キャノンをジャキリっ! と鳴らして、結は威嚇するが、
「無理ですよ。先生の装備では、仮に直撃させることができても、必ず時空転移装置を
巻き添えにしてしまいますから…」
 保奈美はすべて計算していたのだった。
 それを知った結に成す術はなく、じりじりと保奈美が詰め寄るたびに、後ずさるしかなかった。
「偽者をこしらえて、それが幸せになるのを手助けすれば、罪悪感が消えていい気分でしたか? 
なおくんに代わりなんていなくて、もう二度と帰って来ないのに!」
 それでもやがては壁際に追い詰められた。キュリキュリとキャタピュラを空転させる
結の体を保奈美の影が覆う。
「ちなみに、私は、あの二人の愛が本物かどうかじゃなくて、愛し合っている事実が気に入らないんです」
「藤枝さん、あなたは…」
「そういえば、おまけシナリオで、なおくんにゲテモノプリンを食べさせてましたっけ?」
「キャアアアアアァァァァァァァァァっ!!」



ピンッ!
 アラームの発するビープ音が定刻を知らせた。
 茉理は目を開けて目標を見据え、操縦桿を握りなおした。
 すっかり夜の帳が下りて、新月の夜空は星がハッキリと見えた。
 エンジンの回転数を急上昇するのに合わせて、スラスターを最大出力で噴かせて、
一気に森を抜けた。
 一直線に蓮見台学園を目指し、一気にトップスピードまでのったマシーンが、風を切る音に包まれる。
足元では民家の明かりが後方へと流れていった。
『3… 2… 1… ! 』
 準備射撃でミサイルを放つ。テンポのいい反動がマシーンを揺らす。
 白煙の尾を引いてバックパックのミサイルポッドから撃ち出されたミサイルが、
急激に向きを変え、加速しながら飛翔する。
ミサイルは、すぐ茉理のマシーンを追い越して、なおも速度を増して、学園へ突進した。
 ミサイルの着弾した丘の上で、小さな閃光が花開き噴煙が舞い上がった。
 ワンテンポ遅れて響いてくる爆発音を聞きながら、茉理は空になったミサイルポッドを投棄して、
ビーム砲の照準を蓮見学園に固定する。
ズギャーン!
 学園の敷地に入る手前でビーム砲を発砲する。
 携行型のビームスプレーガンとは比べ物にならない発射音をたてて、肩部のビーム砲から放たれた
無数のビームの光芒が校舎に突き刺さる。
 茉理は、一度学園の上空を通過してから、住宅地の上空でマシーンを素早く旋回させて、
再びスラスターをふかした。
フライング・アーマーは、滑り込むようにして学園のグランド上空に陣取る。
 茉理が、あらためにて目前にした学校は、燃えていた。
 つい半日前まで、茉理の日常空間のひとつだった蓮見学園が、高温のビーム粒子に
焼かれ炎をあげていた。



 茉理が揺らめくオレンジ色の炎に照らされながら、見下ろした、校舎、渡り廊下、中庭、
体育館、その他学校施設のほとんどが燃えている。
 その中で、カフェテリアだけは、周囲の炎に鮮明に照らされて無傷であることがわかった。
 それで初めて、もはや学校生活を日常として送ることができないことを、茉理は実感した。
それは、直樹がいなくなった現実を突きつけられるのと似た感覚だった。
 カフェテリアが無事であっても、安心も安堵もしなかった。ただ、募る苛立ちが怒りとなって膨張する。
「こんなもの… こんなものがなんになる。直樹がいないのに、直樹との思い出の場所が
あってなんになるっ! 燃えてしまえっ…… んくっ…… こんなものっ!!」
 嗚咽交じりに叫ぶ茉理に呼応するかのように、フライング・アーマーの胸部の拡散ビーム砲が
火を噴いた。
 火球が膨れ上がるように弾けたビームが、押し流すように一瞬でカフェテリアを包み込んだ。
 熱風にあおられた窓ガラスが、熱膨張で一斉に弾け飛び、建物が激しく燃え上がる。
 涙でにじむ茉理の眼前で、渦巻くオレンジ色の中にカフェテリアが溶け込んでいった。
 茉理は、その手で思い出を作ってきた場所を燃やしてしまった。
 茉理が、その光景を完全に受け止めきる前に、時計塔のほうから『状況達成』信号弾が上がる。
 保奈美が目的を果たしたことを知らせる合図だ。これで、茉理の分担である保奈美が
脱出を助けるための陽動攻撃は完了であった。
 目ぼしい敵を確認できないまま、茉理が遅延戦闘に移行しようとしていたときだった。
 茉理は、炎上する校舎の上に人影を見た。火事で逃げ遅れた者が、助けを求めて屋上に
上がったのだろうか?
 距離と暗さのせいで人物を特定することはできなかったが、茉理には、その人影の
存在そのものが、自分を叱責しているように思えた。
 その感覚が茉理に、人殺しを実感させた。
『間違えたんじゃない。騙されてるんじゃない。仕方がないんじゃない。私が直樹に会いたいから、
わかってやってるんだっ!』
「人殺しがなんだって言うんだ!!」
 そう茉理が叫び、有線ビーム砲を展開した、まさにその時だ。
 人影の手元が、キラリと光を反射したように見え、フライング・アーマーの下方の、
何もないはずの地面から、巨大な拳が突き上げられた。
 金属質のそれの動きは、巨大さゆえに緩慢に見えても、茉理の想像以上に早かった。
 マシーンを持ち上げる程度だろうと予想させた拳は、左側の飛行ユニットと有線ビーム砲を
削り取るようにして粉砕した。
光沢のない銀色の固まりの周りを、自機の破片が舞い散る様が、茉理の目にはスローモーションで
流れていった。
ガクリ、と機体が傾く衝撃で茉理が我に帰ると、同じタイミングで、システムのオート・
ダメージ・コントロールが破損した飛行ユニットと砲撃ユニットを切り離し、無事だった
片方の飛行ユニットが、一機で機体を支えた。
『何なんだ!? いったい』
 人影のことなどすっかり忘れた茉理が、展開した有線ビーム砲の砲身を巨大な拳の腕に
向けたとき、時計塔のほうからまたも信号弾があがる。
 今度は、『作戦中断』と『撤退命令』の2種類が同時にだ。
 通常2種類の信号弾を同時にあげることはない。
『つまり、想定外の異常事態かっ!』
 茉理は、後退をかけながら、構えた有線ビーム砲を発砲した。
これは、牽制である以上に、茉理の性格がさせたことだった。やられっぱなしでは
悔しいというだけのことだ。
だが、茉理が放ったビームは、直撃しているにもかかわらず、まるで効果が見えなかった。
ビームはことごとく弾かれ、爆散したビーム粒子が大気と地面を焼いた。
信号弾のことが頭のあった茉理は、割と冷静で、学園の敷地を出るころには機体を旋回させ、
離脱に全力を傾けていた。



 振り返った先で、いまだ天に向けて突き上げられていた銀色の腕に、時計塔のほうから数条のビームが走った。
フライング・アーマーのビーム砲に見慣れた目には、ずいぶんか弱く見える光芒は、
保奈美の携行用ビームライフルのものだろう。
やはり、貫徹せず弾かれていたが、援護射撃をしてくれたことはありがたかったし、
保奈美にも無事でいてほしいと思った。
 無事に脱出したことを伝えたかったのだが、茉理には、自機に信号弾を積んでいない事を
悔やむことしかできなかった。

 茉理は、保奈美との合流地点の山中にフライング・アーマーを着陸させて、指定されていた
とおり自爆装置を起動する準備に取り掛かった。
 驚くことに、フライング・アーマーは、戦術的な機能の大半を失っていながら、
機械としての性能は安定を保っていて、ほとんど完動といっていい状態だった。
 口惜しかったが、茉理は自爆装置のスイッチを入れた。
 茉理が、機体から離れてからタイマーで自爆装置が作動した。テレビや映画で見るような
派手な爆発起きない。装甲の間から火が噴き出して機体が燃えるのだ。
噴き出した炎が、マシーンそのものを燃やし始める。特に燃え方の激しいコックピット周辺は、
青白い閃光を放っていった。
茉理は、かぶっていたヘルメットを、炎の中に投げ込んだ。
 そうして、しばらくマシーンが燃えるのを見つめていた茉理の元に、保奈美が合流する。
「怪我は?」
 保奈美は、開口一番に茉理を気遣った。
「大丈夫ですよ」
 そう言う茉理の体を触って隅々まで調べ、背中の方まで確認した。
 唐突に引っ張られ、抱きしめられた茉理は、少しびっくりしたが、保奈美の胸の体温に身を委ねた。
 この体温こそ、保奈美が血の通った人間である証拠なのだ。
 先ほどまでの、人でなしの所業を繰り広げていたのも、直樹を思う保奈美の体温から
発したものだろう。では、連なったこの二つは、どこで線引きできるのだろう、と茉理は
ぼんやり考えた。
 そして、わが身を振り返る。
戦闘中の自分に、保奈美を心配するような心があっただろうか。ずっと、破壊や殺戮に
狂奔していたように思える。保奈美のことを考えたのは、逃げ出すときくらいだった。
『私はもう全部人でなしだ。直樹に会ったとき、保奈美さんがするみたいに優しくできるのだろうか』
「遅くなる前に帰りましょうか」
 茉理は、保奈美が乗ってきた原付スクーターの後ろに乗って、一緒に林道を下った。
「これからどうなるんですか?」
 しがみつく保奈美の背中に、やはり体温を感じながら茉理は問う。
「なおくんを取り戻すのよ」
 保奈美は純粋だった。
「今日のアレは、いったいなんなんですか?」
「私にもわからないわ。…ごめんね。怖い思いをさせて」
「あ、いえ…」
 茉理は、自分の言い回しが少し嫌味っぽかったのではないかと後悔した。
「やっぱり未来の兵器なんですか?」
「まだ、はっきりしないけど、たぶんそうね。大丈夫よ。茉理ちゃんは、心配しなくても」
 茉理を気負いさせるのは、保奈美にとって本意ではなかった。
 悪路に揺られながら、二人を乗せた原付は、林道を直走った。

 保奈美に送ってもらって、自宅に戻った茉理は、案の定両親に行き先を問い詰められた。
 年頃の娘が、遅くまで遊び歩いていれば親は心配するのは当然だ。仕方がないだろう。
 保奈美の家に行っていたと適当な言い訳をしたら、板垣夫妻は簡単に納得してくれた。



 今日一日でいろいろなことがあった、いや、いろいろなことをしたと思いながら、茉理は
寝床に入った。

 茉理は、疲労に溺れて眠りに落ちた。だが、いまだに保奈美は、幼馴染は眠れない。